【服部住吉神社】
561-0853豊中市服部南町2丁目3-31/06-6864-0761
http://www.hankyu.co.jp/area_info/spot/189
御鎮座の時期については詳らかでないものの、仁平2年(1152)に本殿・鳥居等を再建した、との記録が社記に残されており、それ以前と推測される。天正6年(1578年)の織田信長による荒木村重討伐時に兵火により焼失し、元和8年(1622年)に再建。更に下って昭和22年(1947)にも失火により全焼した。仮社殿を経て、本格再建に当たっては中之島から大阪城内に遷座されることになった★豊國神社の「旧社殿」を譲り受け、昭和36年(1961)に現社殿が建立された。
★境内にある「能舞台」は明治31年(1898)建立で、大阪府下では最古。最初は大阪博物場(現・大阪商工会議所)に建立され、昭和2年(1927年)に大阪天満宮に移築されたものが、昭和56年(1981)に当社へ再移築されたものである。例年8月の薪能をはじめ、年に数回能や狂言が催される。1998年に登録有形文化財に指定されている。鏡板の松は「狩野永祥」が描いたものである。
・・・まるで「曽祖父」に会ったようなホッコリしたうれしい気分になりました。
・・・せっかくなので「服部天神」さんにもお参りしましょう。
◆「服部天神宮」
561-0851豊中市服部元町1-2-17/06-6862-5022
http://www.apsara.ne.jp/hattori-tenjingu/index.html
昔、朝鮮を経由して吾が国へ渡って来た秦の人々は、★機織りの技術を吾が国に伝えましたので、秦氏という姓氏をあたえられ、機織部として各地に住み着きました。当地「服部」の地名も、このあたりに秦氏の人々が住んでいたことから成りたったものと思われます。秦氏は、医薬の祖神★少彦名命を尊崇していましたので、この地にも小祠を建てて、少彦名命をおまつりしていました。秦氏の人々がこの地に移り住んでから数百年が過ぎ、時は延喜元年(西暦901年の春、右大臣、菅原道真公は、無実の罪をきせられて九州太宰府へ左遷される途中、このあたりまで来られて持病の脚気に悩まれ、足がむくんで一歩も歩くことが出来なくなりました。その時、村人たちは、少彦名命をおまつりしてある天神祠に詣でて、足病の平癒を祈願されるようにおすすめしました。「少彦名命は、神代の昔、大国主神と協力して国土を治められ、さらに遠く海外の地をも巡られて、この世の生きものたちのために医薬の方法を定められ、また生きものにとりついて苦しめる邪霊を祓う方法も定められました。この時より今の世に至るまで、生きとし生けるもので、この二柱の大神のご恩をこうむっていないものはおりません。このように尊い少彦名大神にお祈り申しあげますならば、かならずやおみ足の具合も良くなられると思います。」このように申し上げる村人の言葉にうながされた菅公は、少彦名命をまつる天神祠へとむかわれました。菅公が天神祠へお参りされますと、境内近くの路ばたにある五輪塔が目にとまりました。
そして、その五輪塔がこの時より百年程の昔に太宰府へ左遷される途中、病に臥され、遂にこの地にてなくなられた川辺左大臣★藤原魚名公の墓であることをお知りになった菅公は「昨日は他人の身、今日は吾が身にふりかかる定めか」と嘆ぜられ、天神祠にご自身の足病平癒を祈願されると共に、魚名公の霊をもねんごろにとむらわれました。すると、不思議にも間もなく菅公の足の痛みやむくみは治まりました。こうして少彦名命と魚名公の霊の御加護によって足の病がいえた菅公は、ふたたび九州へと旅立たれ、無事に太宰府へ到着されました。 菅公が太宰府においてなくなられたあと、菅公を神として尊崇する天神信仰が全国にひろがりました。当社も菅公の霊を合祀し、「服部天神宮」として社殿を造営し、「菅公脚気平癒の霊験」を伝え聞いた全国よりの参詣人と、また当地が★能勢街道の要所であったこととで、次第に門前市をなすようになり、殊に江戸時代の中期から末期にかけては、その最盛期であり、境内外は非常な賑わいをみせたのでした。