博物場(4) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・中之島の古地図を調べていると、

木邨長門守重成

豊臣秀頼の幼なじみであり家臣として、大阪夏の陣八尾・若江の戦いで藤堂高虎・井伊直孝軍との激戦の末、21歳という若さで討死にしました。常に自分の髪にお香を焚きこめてあったので、討ち取られた首を見た家康は、その美しさと髪から漂う香りに見事と感嘆したと言われています。ここ中之島は江戸時代この辺りが東端で山崎の鼻と言われていました。山崎の鼻とは山崎藩があった場所のことで、各藩蔵屋敷がたくさんありました。明治維新後は公の建物や学校、近代ホテルや料亭が並んでいました。豊国神社もこの中之島にありましたが、中之島公会堂建設にともない移転し、この碑だけが残されて今に至っています建立発起人西邨捨三(六代目大阪府知事)」は、歌舞伎「茶臼山血判取」で市川新蔵が演じた木邨長門守に感動し、豊臣家縁の旧藩主に石碑建立の賛同と資金協力をました。さらにこれに感動した代目市川団十郎も資金提供し、メドが立ったところで知り合いの小林佐兵衛に石碑建立を依頼しました。もう一人の発起人「小林佐兵衛は安治川口に沈んでいた大阪城の残念石を引き上げ寄付し、当時中之島にあった豊国神社の前にこの石碑を建立したのです。小林佐兵衛は明治の侠客、司馬遼太郎の小説「俄」の主人公明石屋万吉のモデルと言われた人物でもあります。火消しから社会事業までさまざまなことに私財を投げ打って取り組みました。特に、明治42年「北の大火」で天満宮を守ったことは、今でも寺井家(天満宮宮司)では恩を忘れてはならないと語り継がれているそうです


たいか1


俄 浪華遊侠伝】著:司馬遼太郎

「俄」とは、作品の舞台となった当時に大坂の市中でもてはやされていた、路上などで行う即興喜劇のこと。主人公の万吉が日本一の俠客と呼ばれるようになった晩年、自身の人生を振り返って「わが一生は一場の俄のようなものだった」と語ったところからとられたものである。祖父が明治初期に大阪でこの万吉が建てた家を買って餅屋を営んでいたことから、司馬はかねてより万吉という人物に親近感を持ち、本作を親しみを込めて書いたという。


・・・また読みたい本が増えてしまった。


たいか2


・・・中之島「豊国神社」の古写真を調べていると、

明治紀念標「大阪府郷土史談」(明治27年2月刊)より

大阪中の嶋公園に高さ数丈の紀念標あり。正面に刻みたる「明治紀念標」の五文字は、陸軍大将有栖川熾仁親王の御筆なり。此標は、明治10年西南の役に戦死したる将士の為に建立したる所なり。例年5月招魂祭あり。忠魂を慰めらる祭事頗る盛んなリ。初め明治6年に政府に征韓の論起こり、西郷隆盛義合わず鹿児島に退居せしが、10年の春、乱を挙げ政府に尋問の廉ありと称してニ万余人の兵を率いて鹿児島を発し、まず熊本城を攻め囲みたり。戦争数月にして隆盛破れ鹿児島の城山に於いて自殺せり。此役官軍の死する者6800余人。傷を負える者も極めて多かりき。時に大阪に負傷者の病院を設けられしが、車駕かたじけなくも之に幸せられ親しく負傷者を慰め給い皇太后・皇后は御手づから綿撤糸を製し給いて病院へ賜われり。万民皆御仁徳の渥きに感泣し奉れり。

明治16年5月6日大阪中之島の豊国神社西隣(現在の中央公会堂後陣あたり)に、明治紀念標が建立・落成し、この日より3日間西南戦役戦死者の弔魂祭が執行された。そして、明治35年★「大阪偕行社敷地内に移設されました


たいか3


大阪偕行社】(現:追手門学院小学校

540-0008大阪市中央区大手前1-3-2006-6942-2231

http://www.otemon-e.ed.jp/introduction/p120/02.html

大阪偕行社の前身は「博行社」である。1876年大阪鎮台司令官三好重臣少将らにより、合同学舎として設立され、1878年に「武ヲ講シ兵ヲ談シ傍ラ詩歌文墨ニ遊ヒ親睦ヲ深メル」目的で、大阪博交社が設立された。1882年に同じ目的で設立されていた東京偕行社と合併し、大阪偕行社と称することになった。1886年に、現追手門学院大手前中高等学校所在地の大阪鎮台監督部用地を借用して社屋を新築した。開社の式には陸軍中将・子爵・高島鞆之助が祝辞を、大阪偕行社幹事長・少将・今井兼利が答辞を述べている。偕行社の「偕行」とは、詩経に収められている漢詩「修我甲兵 興子偕行」に由来し、“共に行こう”の意である。偕行社が設置した私立学校としては、旭川偕行社設置の私立北鎮小学校、広島偕行社附属済美小学校が存在した。


たいか4


・・・平瀬露香さんは、明治能楽界に名を馳せた有名な後援者で明治17年1884生国魂神社境内にあった舞台を、中之島(今の中央公会堂の場所)に★「翠柳館として再建。明治31年(1898)12月に大阪博物場に新しい★「能楽堂」を建てて、大阪における明治の能楽を大いに盛り上げた。その「能楽堂」大正1917)★大阪天満宮に移築・移設されました。(現在は、豊中市服部の住吉神社に移築)

・・・古写真に「翠柳館」?らしきものがありました。さて、「博物場」にあった「能楽堂」は、豊中市「住吉神社」にあるというので行きました。


たいか5


・・・本殿も「豊国神社」から移設したものです。