◆【おおさかアーカイプス/電子博物館展示室】◆
http://www.osaka-archives.com/index.html
●大阪博物場旧蔵「陶磁・漆工」
http://www.osaka-archives.com/museum_cat_04.html
●大阪博物場旧蔵「貨幣」
http://www.osaka-archives.com/museum_cat_05.html
【大阪府立商品陳列所】
明治23年(1890)に開所した★本邦初の商品陳列所である。欧米の商業博物館を模範として計画されたが、初期においては工業試験を、移転した大正期以後においては発明考案の補助を行うなど、市民の技術革新をも支援した。大阪府立商品陳列所がこれらの活動を行うに至った背景には、農商務省が「興業意見」に示した勧業政策の存在を指摘できる。商工業ミュージアムともいえるその活動は、当初農商務省が思い描いていた理想の陳列所像であり、近代日本の技術革新を間接的に支えた重要な存在であったといえる。大阪府が商品陳列所の設立に向けて動き出したのは明治22年3月のことである。大阪府立商品陳列所は当時欧州において流行し、対外貿易政策において著しい成果を挙げていた「商業博物館」として計画された。堂島河畔にて活動していた大阪府立商品陳列所であったが、★明治42年7月に大阪市北区を襲った大火により不運にもその大部分を焼失し、仮事務所への移転を余儀なくされる。仮事務所では事務を行うに留まり、陳列所本来の業務は停滞した。大正に入り新知事の就任を期としてようやく再築計画が動き出し、事前調査の後、再築される運びとなった。
大正6年(1917)、新しい陳列所はかつての土地ではなく商工業の中心地ともいえる本町橋東詰★府立博物場の地に新築移転し、陳列所として再開を果たした。移転先の立地を巡っては陳列所の主な利用者である商工業者の利便性が考慮されている。
【参考】北の大火
http://www.city.osaka.lg.jp/kita/page/0000002159.html
http://image.oml.city.osaka.lg.jp/image/themes/theme569.html
明治42年(1909)北の大火。7月31日未明、北区空心町2丁目のメリヤス業者の家から出火した火は、風速8~10メートルという強風もあって、西へ西へと燃え広がり、11,365戸を焼きつくして、翌8月1日朝、福島の町はずれでようやく鎮火しました。空襲の災害は別として、大阪における明治以後最大の火災です。出火の原因はメリヤス工場で照明に使っていた石油ランプの油壷に火が入って爆発し、それがメリヤスの原料品などの可燃物に飛び火して大きくなったものです。鎮火したのは8月1日の午前4時でした。消防による鎮火というよりも、強風がやんだことや、燃えるものがなくなったことが大きかったようです。この間、北区役所・大阪控訴院・★堂島米殻取引所、大阪高等商業学校・北浜銀行・堂島小学校などが全焼し、福島の五百羅漢堂が焼失するなど社寺の被害も多くありました。また、大江橋・桜橋・難波小橋・梅田橋蜆橋など11橋が焼失しました。★蜆川は瓦礫の捨場となり、やがて埋め立てられました。
◆【大阪歴史博物館】◆
●なにわ人物誌・没後100年・最後の粋人「平瀬露香」
平成20年1月19日(土)~3月10日(月)
2008年は、近代大阪最大の文化人・平瀬露香(1839~1908)が没して100周年に当たります。「今蒹葭堂」「上方の粋の神」とも呼ばれる露香は、近世大坂最大の文化人木村蒹葭堂とともに、大阪の文化力を体現した人物であり、その没後、彼のごとき多芸多才な文化人は現れていません。
★「平瀬露香肖像」作:松原三五郎(1864~1946)
晩年の露香の姿を写したものであり、露香という人物の人間像を映し出すような見事な肖像である。松原三五郎は岡山市出身の洋画家で、岡山県師範学校変則中学科を経て上京し、初代五姓田芳柳、ワーグマン、渡辺文三郎らに洋画を学ぶ。1884年より岡山県師範学校と岡山県尋常中学校の図画教師を務めたのち、1890年には★大阪師範学校に転任した。画塾を開き、池田遙邨ら優れた画家を育てたことでも知られる。
★竹一重切花入「老松」作:平瀬露香
どっしりとした風格のある置花入で、背面に「老松」の銘と露香の花押がある。全体の金割も良く、口造りは節を梅花形に抜くなど、丁寧に仕上げられている品。箱の蓋裏には露香の筆で「置筒花入」と認めている。本品は、露香から大坂★築地蟹島の料亭・瓢遊亭の主人・宮里瓢遊(1812~1889)に贈られたもの。露香と瓢遊の交遊は多岐に及んだようです。※天明3年(1783)に東横堀川北端右岸に★蟹島築地、明和4年(1767)に曲がりの両岸に築地が形成され、料亭や待合茶屋などが集積する遊興の地となった。
平瀬家伝来。露香~高橋箒庵所蔵。平瀬家は幕末頃、鴻池、加島、天王寺屋に次ぐ豪商で、この露香自身も三十二銀行頭取を勤めたりしたしたが、段々と家業が衰退してしまい、とうとう売り立ての憂き目を見ることになった。
★井戸茶碗(青井戸)「浅香山」平瀬家伝来
★本手蕎麦茶碗「夏月」
井戸茶碗のそばに位し、井戸とともに焼成されたとする説もありますが、形姿には明らかに茶人の好みの反映がみられ、これも大きな意味での御木と考えることができましょう。《伝来》★平瀬家/《寸法》高さ6.0~6.5口径16.6~16.8 高台径6.2 同高さ0.8 重さ315
【参考】「能之秘書」所蔵:法政大学能楽研究所
http://nohken.ws.hosei.ac.jp/nohken_material/htmls/index/index.html
全百十六曲を収める脇の型付。流儀は不明ながら、〈葵上〉の祈りで小袖を奪おうとするシテを後ろから打つ型を記すなど、古態の演出を伝え、書体からも慶長頃の写本と推定される。大阪の豪商で、金剛流の後援者として著名な★平瀬露香の旧蔵。露香の没後、未亡人が売りに出したのを、フランク・ホーレイが買い求めたもの。
平瀬露香は、明治能楽界に名を馳せた有名な後援者であった。能は「金剛流」で阪氏連と称して、一時、家元を代行したこともある。能装束もたくさん持っていた。明治17年、早くから生国魂神社境内にあった舞台を、中之島(今の中央公会堂の場所)に「翠柳館」として再建した。その後、31年(1898)12月に、内本町橋詰町にあった「大阪博物場」内に新しい★「能楽殿」を建てて、大阪における明治の能楽を大いに盛り上げた人である。
★天平裂(きれ)
平瀬露香が秘蔵していた色とりどりの美しい布地。
★短冊「汗ともにぬくふ野山の景色かな」
★中興名物「千種伊羅保茶碗」
古伊羅保の極上手で、素地は砂まじりの褐色土、伊羅保釉と井戸釉のかけ分けで、高台は土見ずであります。《伝来》手種宰相家-冬木家-★平瀬家《寸法》高さ6.7~7.3 口径14.0~14.7 高台径5.7 同高さ0.8 重さ280
★柿の蔕茶碗「毘沙門堂」重文
「大津」と並んで柿の蔕の双璧といわれるもので、腰のきっかりと立った姿が手強いです。《伝来》毘沙門堂-★平瀬露香-金沢村彦家-畠山即翁《寸法》高さ6.4~6.8 口径13.7~14.2 高台径5.5同高さ0.9 重さ290《所蔵》畠山記念館
★古井戸茶碗「江岑井戸」
江岑宗左の所持による銘です。枇杷色の釉の一部が青く窯変し、釉なだれ、火間もあって、釉調の変化が見所の一つです。《伝来》表千家-山中了壽-松平周防守-★平瀬露香-上田露吟-金沢村彦家-島徳蔵《寸法》高さ5.6~6.4 口径13.3~13.6 高台径5.1~5.4 同高さ0.9 重さ218《所蔵》畠山記念館
★唐物肩衝茶入「松永」
「松永」の銘は、戦国武将で茶器名物の蒐集で知られる松永弾正少弼久秀の所持に由来する。松永安左エ門(耳庵)は、★平瀬露香旧蔵の本作をその銘に因み昭和33年初頭に入手した。
★瀬戸後窯茶入れ「千草(ちぐさ)」
正意作。景色を千草の花に見立ててか松平不昧の箱蓋裏書付に「ともかくも人にはいはて野辺にきて千草の花をひとり見る哉」とある。
伝来は、★平瀬家。仕覆は、丹地鯉紋金入、竪縞間道、繻子地梅鳥浮織、和久田裂。袋箱、桐白木、書付平瀬露香。蓋二枚。挽家、鉄刀木、書付松平不昧。内箱、桐白木、書付松平不昧。外箱、桐白木、書付★平瀬露香。御物袋、白紋羽二重。
・・・「博物場」は「平瀬露香」さんの収集物や、目利きで集められたものが基盤になったようですね。