■1994「ハイアットリージェンシー大阪」
559-0034大阪市住之江区南港北1-13-11/06-6612-1234
http://www.obayashi.co.jp/chronicle/works/12200.html
大阪南港のコスモスクエア地区に誕生した「ハイアットリージェンシー大阪」は、コンベンション機能を充実させた大型シティリゾートホテルである。客室数500、19ヵ所の大小宴会場や会議室のほか、多彩なレストランやバーを擁している。★大林組は設計、施工のほかホテル運営に必要なすべての什器、機器の調達までを手がけ、さらに出資会社の一社として事業そのものに参画した。主な客用エリアのインテリアデザインはアメリカのウィルソン・アンド・アソシエイツが担当した。敷地が埋立地の若齢地盤であるため、地盤改良工事を先行実施した。外装ではPC版ピース数の減少を図り、工期短縮、労務量の低減、ジョイント部からの漏水事故絶無を目標にバルコニー一体型を採用した。風による建物の揺れから起こる船酔い現象を解消する目的で、当社が開発したパッシブ制振装置「MOVICS」が設置されている。現在、同ホテルは当社が所有し、当社の完全子会社であるエイチ・アール・オーサカが運営している。
★2006「eternity」/設計:青木淳
http://www.hyattregencyosaka.com/wedding/ceremony/eternity.html
エタニティ“永遠”という名の緑と水に囲まれた屋外独立型チャペル。「どこにもないチャペルを」という建築家・青木淳氏の設計により、斬新かつ独創性のある空間となっています。屋根を支える無数に組み合わされた白いリングは、結晶からイメージされたもの。愛を誓い合う場であるチャペルは、1500個のリングが柱の代わりとなってチャペルを支えています。なので外からでも中からでも見えにくいという事は一切ありません。昼は陽光を受けて明るく輝き、夜は水面に幻想的に浮かび上がります。
【青木淳】
1956年神奈川県生まれ。東京大学大学院修士課程(建築学)を修了後、磯崎新アトリエに勤務。91年に青木淳建築計画事務所を設立。99年に《潟博物館》で日本建築学会作品賞を受賞。東京やニューヨークのルイ・ヴィトンの店舗設計を手がける。住宅、公共建築、商業施設と幅広いフィールドで活躍する。2005年芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。
■1995「大阪府咲洲庁舎」(旧大阪ワールドトレードセンタービルディング/WTC)
559-8555大阪市住之江区南港北1-14-16/06-6941-0351
http://www.pref.osaka.lg.jp/koho/location/location16.html
コスモスクエア地区のシンボルとして、大阪湾に臨む複合施設「コスモタワー」。★256mを誇るビル内は、医療施設をはじめ、ロケーションを生かしたブライダル会場やレストラン・展望台や公共広場などの娯楽施設が充実しております。皆さんにほっと一息ついていただけるような、親しみのあるビルをめざします。(地上55階256m)設計:日建設計・マンシーニ・ダッフィ・アソシエイツ
http://www.wtc-cosmotower.com/
【NEWS1】2015.8.1産経WESTより
大阪府が咲洲庁舎売却を検討(旧WTCビル)民間主導で活性化探る
大阪市住之江区の大阪府咲洲庁舎(旧大阪ワールドトレードセンタービルディング、WTC)について、府が売却を検討していることが7月31日、分かった。買い手が付きやすくするため、一定期間は現状のまま借り上げ、賃料を払うことも検討している。同庁舎には約2千人の職員が勤務しているが、ビル全体ではテナントの約4割が埋まらず、民間主導による活性化を探る中で売却案が浮上した。買い手が付かない恐れもあり、所有したままでの活用策も探る。旧WTCは平成7年、大阪市の第三セクターが約1200億円で建設したが、テナントが埋まらず破綻。当時の橋下徹知事(現大阪市長)が本館がある同市中央区大手前の庁舎機能を全面移転させることを表明して府が22年、約85億円で買い取った。議会の反対もあり咲洲庁舎への移転は一部部局に留まったなか、庁舎周辺が地震による津波で浸水する恐れも判明。全面移転は事実上頓挫した。咲洲庁舎をめぐっては、移転を推し進めた大阪維新の会に対し、自民党を中心に大手前に機能の再集約を求める意見もある。11月の知事と大阪市長の★ダブル選では、売却の是非が争点になる可能性がある。
・・・★「清水九兵衛」さんの「作品展示室」がありました。
【清水九兵衛】(1922~2006)
抽象彫刻の第一人者である一方、京焼の名家として知られる清水六兵衞(七代)を襲名していた。名は広、旧姓は塚本。愛知県大久手町(現在の名古屋市)に生まれ、第二次世界大戦開戦直後に名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)で建築を学び、主にイタリアのファシスト政権下で存続していたモダニズム建築に興味を持った。沖縄戦から生還し、戦後は東京藝術大学鋳金科で彫刻を学んだ。在学中に京都の清水焼の名跡、六代清水六兵衞の養子となり陶芸をはじめた。1953年に大学を卒業し、陶芸家として評価を高め日展の審査員も務めたが、その間もヨーロッパ、特にイタリアの現代彫刻に関心を持ち続け、1967年に日展を辞し陶芸をやめ抽象彫刻の制作を開始した。1960年代末のヨーロッパ留学を経て、西洋の彫刻のもつ強い表現への意志とスケールの大きさ、公共空間や古い建築空間への調和などを見て影響を受けるが、同時に西洋の堅牢な建築や都市空間への違和感も覚え、日本の風土に適応する近代彫刻の可能性を探求することになった。この後、作品が周囲の環境に溶け込み調和するような「親和(アフィニティー、AFFINITY)」をテーマとすることとなった。1970年に、それまでの真鍮にかわり、アルミ合金を鋳造して艶消しした抽象彫刻の制作を開始。大地から足を伸ばす垂直性と、足の上にアルミの有機的な形が大きく横たわる水平性を強調するスケールの大きな彫刻を多数制作し、ビルの公開空地や広場など公共空間に置かれるパブリック・アートも多く手がけた。1981年に七代清水六兵衞を襲名。陶芸活動を再開し、花器などの制作を行う一方、彫刻制作も引き続き行った。2000年に長男の清水柾博が八代清水六兵衞を襲名した後は彫刻に専念し、アルミやステンレス、陶を組み合わせた造形を模索した。