琳派(3) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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◆国宝「風神雷神図屏風」作:俵屋宗達

17世紀(江戸時代)各169.8×154.5cm2曲1双建仁寺

俵屋宗達の至高の代表作。17世紀初頭の京の豪商ウツダキンノリの依頼により制作されたと推測される本作は、金箔が一面に貼られる屏風の中に、右側から黒雲に乗り風を操りながら舞い降りる風神の姿を、左側から力強く雷太鼓を打ち鳴らす雷神の姿を描いた俵屋宗達の代表作として古来から伝えられると共に、今日、我々が頭に描く風神・雷神の形象を決定付けた作品でもあるが、作品に関する記録や文献はおろか、画面に款記も印章も残されていない。本作が後世に与えた影響は甚大であり、宗達と同じく琳派を代表する絵師尾形光琳や、幕末に活躍した江戸琳派の酒井抱一が模作を残している。京都の建仁寺が所有権を有しているものの、保存状態や保護設備、資料的価値等の点を考慮し、現在は京都国立博物館に収蔵され、建仁寺には精密なレプリカが展示されている。


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■「建仁寺

605-0933京都市東山区大和大路通四条下る四丁目小松町075-561-0190

http://www.kenninji.jp/

建仁寺は建仁年(1202)将軍源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立されました。元号を寺号とし、山号を東山と称します。創建時は真言・止観の二院を構え天台・密教・禅の三宗兼学の道場として当時の情勢に対応していました。その後、寛元・康元年間の火災等で境内は荒廃するも、正嘉元年(1258)東福寺開山円爾弁円が当山に入寺し境内を復興、禅も盛んとなりました。正元元年(1259年)宋の禅僧、建長寺開山蘭渓道隆が入寺してからは禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ純粋に禅の道場となりました。やがて室町幕府により中国の制度にならった京都五山が制定され、その第三位として厚い保護を受け大いに栄えますが、戦乱と幕府の衰退により再び荒廃します。ようやく天正年間(15731592)に安国寺恵瓊が方丈や仏殿を移築しその復興が始まり、徳川幕府の保護のもと堂塔が再建修築され制度や学問が整備されます。明治に入り政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派としての分派独立、建仁寺はその大本山となります。また廃仏毀釈、神仏分離の法難により塔頭の統廃合が行われ、余った土地を政府に上納、境内が半分近く縮小され現在にいたります。


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第七回金澤翔子書品展

平成271030日(金)~11月8日(日)建仁寺大書院

今から4年前に書「風神雷神」をご奉納いただいたことで始まりました金澤翔子さんの作品展も今回で7回目を迎えました。今回も翔子さんの力強く躍動感にあふれた作品を多数展示する予定となっております。是非この機会に当山にお越しいただき、その作品を間近でご覧ください。


喫茶養生記

建仁寺開山・栄西禅師が、中国から茶種を持ち帰って日本において栽培を奨励し、喫茶の法を普及された事はあまりにも有名です。開山以前、我が国に茶樹がなかったわけでも、喫茶の風がなかったわけでもありません。我が国に茶の種が入ったのは、古く奈良朝時代と思われます。下って平安時代には、貴族・僧侶の上流社会の間に喫茶の風が愛用されました。開山が少年時代を過ごされた叡山にも、伝教大師以来、古くから茶との結びつきがありました。この伝統の影響を受けられた開山が、茶種の招来、喫茶の奨励、いままでごく一部の上流社会だけに限られていた茶を、広く一般社会にまで拡大されたということができます。喫茶の法の普及と禅宗の伝来とは深い関係がありました。禅宗僧侶の集団修道生活の規則は、すでに中国において唐代に確立し、これを清規といいます。「清規」とは清浄なる衆僧の規則という意味で、その清規の中に茶礼・点茶・煎茶や茶についての儀式が多くあります。特に座禅の際行う茶礼は、眠気覚ましには特効薬的意味もあって、修道にはなくてはならない行事です。また座禅修行者に限らず、一般の人に対して茶は保健上から良薬であると、茶徳を讃得たのが開山の『喫茶養生記』です。上下二巻にわたり、喫茶の法、茶樹の栽培、薬効等茶に関する総合的著述になっています。そして「茶は養生の仙薬・延齢の妙術である」という巻頭語の所以を詳述しました。開山は再入宋後、茶種を持ち帰り、筑前の背振山に植えられました。これが「岩上茶」のおこりだといわれます。また、開山が栂尾明恵上人に茶種を贈られたことも有名で、「栂尾茶」の始まりといわています。宇治の茶は、この栂尾から移されたものです。茶は今日では日本人の日常生活に欠くことのできない飲料であるばかりでなく、茶道の興隆と共に、東洋的精神の宣揚にも役立っています。建仁寺開山・栄西禅師が日本の茶祖として尊崇されるのはそのためです。

室「東陽坊

草庵式二帖台目席。天正十五年(1587)に豊臣秀吉が催した北野大茶会で、利休の高弟・真如堂東陽坊長盛が担当した副席と伝えられています。二帖台目席でもっとも規範的な茶室とされ、茶室の西側には当寺の名物「建仁寺垣」が設けられています。


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【参考】高山寺

616-8295京都市右京区梅ヶ畑栂尾町8075-861-4204

http://kosanji.com/

創建は奈良時代に遡るともいわれ、その後、神護寺の別院であったのが、建永元年(1206)明恵上人が後鳥羽上皇よりその寺域を賜り、名を高山寺として再興した。★鳥獣人物戯画、日本最古の★茶園として知られるが、デュークエイセスの唄「女ひとり」にも歌詞の中に登場しています。また、川端康成、白洲正子や河合隼雄の著書にも紹介されています。さらに★「モリアオガエル」の生息地としても有名です。2015年5月24日生息する天然記念物モリアオガエル本年度も確認されました。

草創から現在に至るまで、高山寺は明恵上人の寺である。寺宝の多くが明恵に関わる。明恵は承安三年(1173)に生まれ、寛喜四年(1232)に没した。八歳で父母を失い、高雄山神護寺の文覚について出家する。東大寺で華厳を学び、勧修寺の興然から密教の伝授を受けた。建永元年(1206)後鳥羽院より栂尾の地を賜り、高山寺を開く。明恵といえば、厳しい修学修行、釈迦への思慕、自然との調和、人間味あふれる逸話、夢幻に彩られた伝説、書き留められた夢などが想起される。若き日には、求道の思いから右耳を切り落とし、釈尊への恋慕から二度にわたってインド行きを企んだ。残された和歌も自在な境地を伝える。没後は、空達房定真、義林房喜海、義淵房霊典、順性房高信ら高弟がその衣鉢を継いだ。伝記に『明恵上人行状』『明恵上人伝記』などがある。

高山寺は日本ではじめて茶が作られた場所として知られる。栄西禅師が宋から持ち帰った茶の実を明恵につたえ、山内で植え育てたところ、修行の妨げとなる眠りを覚ます効果があるので衆僧にすすめたという。最古の茶園は清滝川の対岸、深瀬三本木にあった。中世以来、栂尾の茶を本茶、それ以外を非茶と呼ぶ。「日本最古之茶園」碑が立つ現在の茶園は、もと高山寺の中心的僧房十無尽院があった場所と考えられている。現在も、5月中旬に茶摘みが行われる。


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修理完成記念国宝鳥獣戯画と高山寺京都国立博物館明治古都館(本館)

2014(平成26)年10月日(火)~11月24日(月・休)

・・・もうあれから1年になりますねえ。そうそうあの時も今回も、お土産は「おたべ」でした。