【幻の五新鉄道】
http://www.city.gojo.lg.jp/www/contents/1197617489975/
現在、跡地の一部は路線バス専用道や、宇宙のなぞを解明する研究所★「大阪大学コスモ観測所」として利用されています。また、平成9年(1997)にカンヌ映画祭カメラドール賞(新人監督賞)を受賞した河瀬直美監督の映画「萌の朱雀」は、五新鉄道と西吉野村の雄大な自然等を物語りの素材にしています。2008年3月から上映されたのロケ地にもなりました。
★「大塔コスモ観測所」
http://wwwkm.phys.sci.osaka-u.ac.jp/info/syoukai/oto.html
奈良県の五條市(旧大塔村)にある大塔天辻トンネルの中間点付近にあります。元々は鉄道用として建設された長さ約5kmのトンネルで、最大深度は約470mです。トンネル内を吹き抜ける比較的強い風のために相対的にラドン濃度が低く、超低雑音の観測所になっています。
★映画『花影』
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=329717
河合勇人監督、主演の山本未来、キム・レウォン。在日韓国人3世のジュエリーデザイナー、サンミと韓国人青年の恋を描いた作品。
◆「史跡公園」奈良県五條市新町3-3
【明治維新発祥の地】
http://www.city.gojo.lg.jp/www/contents/1149588496229/
幕末の風雲急を告げ、攘夷倒幕の嵐がふきすさぶ中、文久3年(1863)8月13日、尊王攘夷の断行を神武山陵に祈願するための大和行幸が朝議で決まりました。当時、京都の政局は尊王攘夷派が握っていて、彼らの一部には、これを機に一挙に倒幕をはかろうとする動きがありました。この機をうかがっていた倒幕急進派の中山忠光、吉村寅太郎、藤本鉄石、松本奎堂らが皇軍の先鋒となるため、翌14日京都を発ち、千早峠を越えて当時幕府の直轄地であった五條に入りました。8月17日、天誅組志士30人は一斉に挙兵し、五條代官所を襲い代官鈴木源内を殺害、★「櫻井寺」を本陣として、五條新政府を号し、倒幕の旗を揚げました。ところが翌18日、朝議は一変して攘夷派が敗れ、大和行幸は中止。ここで天誅組の義挙はその大義名分を失ってしまいました。その後、天誅組は十津川郷士960人の来援を得て、「高取城」に侵攻しましたが撃退され、大日川、広橋、栃原、下市口と吉野各地で転戦するも追討軍は1万人を超え、内部の対立、十津川郷士の離反もあり、翌9月24日、東吉野村鷲家口に於いて決死的斬り込みを敢行して終わりを遂げました。天誅組の義挙は幕末における下級武士と豪農豪商とが一体となった最初の武装反乱で、倒幕及び明治維新の魁としてたたえられる歴史的なものであります。明治維新が実現するのは、このわずか5年後のことでした。
http://www.city.gojo.lg.jp/www/contents/1198563238818/index.html
※「櫻井寺」637-0005奈良県五條市須恵1-3-26/0747-22-3165
◆【民俗資料館】◆
http://www.city.gojo.lg.jp/www/contents/1143644237812/index.html
この資料館は、江戸末期には五條代官所の長屋門だった建物です。現在の五條市役所のある場所に建っていたもとの代官所は、文久3年(1863)におこった天誅組大和義挙の際に焼き討ちにあい、元治元年(1864)10月、現在奈良地方裁判所五條支部のあるところに幕府があらたに代官所を立て直したのでした。明治維新の後、代官所は五條県庁に引き継がれ、一時警察大屯所などに利用されていましたが、明治10年に五條区裁判所となり現在に至っています。裁判所の改築の際、正門である長屋門と広場を五條市が譲り受け、広場を史跡公園、長屋門を民俗資料館として整備しました。しかし、長い間市民の憩いの場、学習の場として親しまれてきた資料館は、老朽化が進み閉館となっていました。平成15年9月、明治維新のさきがけといわれる天誅組義挙から140年を迎えるにあたり、国のために己を捨てて尽くした若き志士たちを讃えるとともに、図らずもその犠牲となった人々を追悼し、わたしたちのまち五條市でおこった重大な史実を語り継ぐため、史跡公園及び長屋門を再整備しました。長屋門は天誅組の足どりやゆかりの地などの資料が展示された資料館としてあらたにうまれかわり、五條市の歴史に触れていただけるほか、研修会等にもご利用いただけます。
◆「金剛ハロー号」8620形蒸気機関車
日本で初めて本格的に作られた蒸気機関車。愛称「ハチロク」と親しみ呼ばれ、全国を走り回りました。78675番の本号は、1925年に川崎造船所で製造されています。かつて和歌山線の金剛山の麓を駆けた機関車は、「金剛ハロー号」と名付けられ、史跡公園に展示されているのです。8620形の第1号機は1914年(大正3)4月3日に大阪の汽車会社で完成しました。以降8620~38648号機までの269両は汽車会社が製造しましたが、1920年(大正9)10月からは日立造船所笠戸工場、1921年1月には川崎造船所兵庫工場、1922年6月には日本車両名古屋工場、1924年10月には三菱造船所神戸工場でも8620形が製造されました。1930年(昭和5)日立造船所笠戸工場で完成した88651号機が最終機で、汽車会社が384両、日立が137両、川崎が83両、日車が57両、三菱が11両の総計672両の8620形が誕生し国鉄に納入されました。
・・・SLの煙突もいいですが、煉瓦の煙突もいいですねえ。
・・・次の「はならあと・こあ」は、10月24日から始まります。