仏塔(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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仏塔

仏舎利(釈迦の遺体・遺骨、またはその代替物)を安置した仏教建築をいう。卒塔婆(そとば)、塔婆(とうば)、塔(とう)とも呼ばれる。

層塔・多層塔

三重塔や五重塔や多宝塔などのように階建て以上の仏塔のことを「層塔(そうとう)」や「多層塔(たそうとう)」と呼ぶ。原則的には、奇数層となる。三重塔・五重塔などのように階層が低い場合は木造建築のものが多いが、談山神社の十三重塔のように階層が高くなると石造のものが多い。(なお、三重塔や五重塔でも庭に置くような小さいものは石造のものもある。)

・・・「寺社奉行」新シリーズをあれこれ考えた末、初心にかえって「仏塔」に決めました。「寺社」にそれほど興味もない若い頃、しかしながら「五重塔」はカッコイイと感じていました。自宅近辺に「五重塔」はありませんが、


ぶと1


西琳寺

583-0852羽曳野市古市2-3-2072-956-0603

http://www.city.habikino.lg.jp/10kakuka/34shakaikyoiku/03bunkazai/04isekishokai/07asuka/t_a_sairinji.html

世紀前半(約1350年前)に有力な渡来系氏族の西文氏(かわちのふみうじ)によって建立された寺院です。西文氏は当時の政府内では文筆、記録や外交の職務を担当していました。現在でも法灯を掲げる古刹ですが、かつては広大な敷地を有し、古代幹線道路の丹比道(竹内街道)や東高野街道に面した寺域が復元されています。当時の建物は現存していませんが、西に金堂、東に塔を配する★「法起寺式伽藍配置をとるものと考えられています。現境内には、塔の心柱を支えた巨大な礎石が保存されています。また、主要建物の屋根を飾っていた鴟尾が発掘調査で出土しています。この鴟尾には、蓮華の模様など他に例を見ない見事な装飾が施されています。現在鴟尾は、羽曳野市有形文化財に指定され、陵南の森歴史資料室に展示されています。

・・・「西琳寺」には「塔礎石」しか残されていませんが、いにしえを彷彿させる景色があります。さて、★「法起寺式伽藍配置と考えられているそうなので、


ぶと2


法起寺

630-0102奈良県生駒郡斑鳩町大字岡本1873/0745-75-5559

http://www.horyuji.or.jp/hokiji.htm

法起寺は別名、岡本尼寺、岡本寺、池後寺、池後尼寺と呼ばれています。この寺は、推古14年(606)に聖徳太子が法華経を講説されたという岡本宮を寺に改めたものと伝えられ、法隆寺、四天王寺、中宮寺などと共に、太子御建立七ヵ寺の一つにかぞえられています。


ぶと3


創建の由来については『聖徳太子伝私記』に記録する当寺の三重塔にあった露盤銘によって判明します。それによると、推古30年(6222)2月22日、聖徳太子はその薨去に臨み、長子の山背大兄王に宮殿(岡本宮)を改めて寺とすることを遺命し、山背大兄王は大倭国田十二町、近江国の田三十町を施入したといわれています。その後、舒明10年(638)に福亮僧正が聖徳太子のために、弥勒像一躯と金堂を造立し、天武14年(685)には恵施僧正が宝塔の建立を発願し、慶雲3年(706)3月に塔の露盤を作ったとされています。この露盤銘に記すように近年境内の発掘調査の結果、前身建物の遺構の一部が確認されており、法起寺の建立以前に岡本宮と見られる宮殿が存在していたことが明らかとなりました。同時に、中門を入って右に三重塔、左に金堂、中央正面奥に講堂があり、廻廊は中門左右から堂塔を囲み、講堂の左右に接続する様式の伽藍であったと推測されています。当寺のことは、『正倉院文書』や『日本霊異記』にも見られ、奈良時代には相当栄えていたようですが、平安時代から法隆寺の指揮下に入り、寺運も徐々に哀微しましたが、鎌倉時代には講堂や三重塔が修復されています。しかし、室町時代に再び衰え、江戸時代のはじめごろには三重塔のみを残すのみであったといわれています。その荒廃を憂い、当寺の再興を発願した寺僧の真政圓忍とその弟子たちは、延宝6年(1678)に三重塔を修復しました。それ以降も、寺僧たちの努力によって浄財を集め、元禄7年(1694)に講堂を再建、文久3年(1863)に聖天堂を建立し、現在の寺観が整えられています。昭和47年(1972)には三重塔の解体修理に着手し、50年に完成したのに続いて、53年には講堂の修理を行い、57年には重要文化財の十一面観音菩薩像を安置する収蔵庫を新設しています。

法起寺は、天平時代の記録に池後尼寺とあることから、尼寺として建立されたことがわかります。その伽藍配置は、塔を東に金堂を西に配したもので、法隆寺西院や法輪寺とは位置が逆転しており、★「法起寺式と呼ばれています。


ぶと4


三重塔

この建物は、現存最古の三重塔で、創建は慶雲3年(708)です。建立後は、再三にわたる大修理が行われたため、建立当初の形式が明らかでないところもありますが、昭和45年から50年にかけての解体修理の際、それまでの研究成果を踏まえた復元がなされ、現在に至っています。初重内部は土間で四天柱と八角の心柱を立て、四天柱の上に肘木と斗を組んでいますが、二重以上は骨組がいっぱいに組まれています。初重にある仏壇は近世のもので、法隆寺の五重塔のような須弥山が作られた形跡や古い仏壇の痕跡がないので、当初の状況は明らかではありません。

・・・当然、この後は「法隆寺」へ。途中、「赤丸ポスト」を発見しました。


ぶと5


・・・「斑鳩の里」は、こうでなくちゃね。