・・・大和郡山市の「慈光院」については、★「堀口捨己」さんが、戦時中ここに泊り込んで実測し、図面化することから「茶室研究」を始めたということで紹介しましたが、つい先日、「慈光院」の近くで新たな発見がありました。
★小泉城(石州流茶道宗家「高林庵」)
639-1042奈良県大和郡山市小泉町2252/0743-52-3016
石州流茶道流祖・片桐石見守貞昌(石州)の旧片桐城跡が財団法人「高林庵」。石州流茶道宗家の本部であり、片桐家の居宅となっている。
別名、片桐城、小泉陣屋とも呼ばれている。小泉陣屋時代は小泉藩の藩庁でもあった。小泉氏はもともと興福寺衆徒 で1443年(嘉吉3)に小泉重弘が大乗院門跡 経覚と共に筒井氏と戦った。重弘はその後戦死するも、1455年(康正元年)に畠山弥三郎側についていた筒井氏が没落すると、古市氏、豊田氏、秋篠氏、尾崎氏、鷹山奥氏の国人らが勢力を拡大し、小泉氏と共に4年間興福寺衆徒についた。その後長い間筒井氏と対立していく。1459年(長禄3)、『大条院寺社雑事記』によると筒井順永軍が「小泉館」を攻めて小泉重栄、小泉今力丸等多くが切腹し、小泉館を破却するため奈良中の郷民に動員されたとされている。また『大条院寺社雑事記』には「館」と記載されているが、『日本城郭大系』によると「筒井城の場合と同様、城郭化していたものと思われる」と解説している。1475年(文明7)にも落城し、またしても奈良の郷民に動員し破却させ筒井城の柱にしたと伝わっている。筒井氏と小泉氏は反目していたが、天文年間には小泉秀元は筒井順昭の姪を娶って、筒井氏の重臣と活躍し、軍功によって1万4千石が与えられた。その後小泉氏は史料には記載されないようになる。『城と陣屋』によると筒井定次が伊賀国に移封すると小泉秀元とその一族は共に従ったとある。その後豊臣秀長が大和国を治めるが、その家臣であった羽田長門がこの小泉の地に4万石で入った。この時に現在もあるナギナタ池、お庭池を含む外堀を造ったものと言われ、小泉氏の館跡を拡大したと思われている。1601年(慶長6)、豊臣秀吉に仕えていた片桐且元の弟片桐貞隆が小泉城を含め1万5千石で大名の列に加わった。その後『茨木市史』によると「片桐氏の茨木入城の時期については関ヶ原合戦後と考えた方がよい」とあり、関ヶ原の戦い後に片桐且元、片桐貞隆兄弟の本拠地としていた龍田城や小泉城から、大坂城の近くにある茨木城に移って豊臣氏を補佐していた。そして大坂の役が終わると、今度は徳川家康より片桐且元は4万8千石、片桐貞隆は1万6400石に加増され、片桐貞隆は1623年(元和9)に小泉城に戻ってきた。ここより小泉陣屋として新たにスタートし、陣内にいた農民を街道筋に屋敷替えを命じ再び大きく改修した。茶人として有名な石州流の元祖、片桐貞昌は小泉藩第2代藩主である。貞昌は弟の貞晴に3千石分知し、小泉藩は1万3千石となった。3代藩主貞房の時、庶兄の片桐信隆に1千石を分知したため、1万2千石となった。さらに収公され1万1千石となった。片桐氏は初代貞隆から12代貞篤まで代々と小泉の地を離れることなく明治維新を迎えている。廃城は廃城令によって取り壊されたと思われている。
石州流の聖地といえる「高林庵」は、内庭・中庭・裏庭・11の茶室・玄関と四つの庭を持つ広大な敷地に建ち、北側には明治初期に東京から移築した江戸屋敷の上段の間がある。裏庭には片桐稲荷や弁財天を祀るお堂もあり、その規模の大きさに驚かされる。御殿とも呼ばれるこの建物には片桐家の大きな仏壇などもあり、11月の石州忌をはじめ四季を通じて行事が行われている。
茶室「月庵」は出雲松江藩7代藩主の松平不昧公ゆかりの茶室。茶室中央を仕切った独特の構造で「お互いの境遇を侵さずにお茶を楽しむ」という武家茶道独特の考えがみられる。片桐石州は大和小泉藩の二代藩主であり徳川家綱の茶道指南だった。石州流茶道は江戸幕府御政道の茶として、大名や武家、御家人らを中心に日本各地に普及し「武士(もののふ)の茶道」と呼ばれているという。高林庵の西側には「薙刀(なぎなた)堀」と呼ばれる池がある。中世に地侍の小泉氏が小泉陣屋を建て、この一帯を治めていた。天正13年(1583)豊臣秀長が郡山城主として入部した折、三家老のひとり羽田長門守が小泉陣屋に居を構えたときに造られたのがこの池。元和元年(1623)に片桐貞昌の父貞隆が小泉に陣屋を築くとき、この池を利用し屋敷を設けたのが「高林庵」の始まりとされる。大手道は金輪院前にある鈎の手から西へ登る道が当時の大手道であった。門は3ヵ所設けられており、北、西北、南にあり、そのうちの1つは★「小泉神社」の表門として残っている。この門は冠木門、高麗門と呼ばれるもので、この門が移築前と変化していないのであれば、その扉は透門形式で、外から見られやすい弱点がある。『ふるさと大和郡山歴史事典』では「内部を桝型形式もしくは通路を屈折させて遮断していたものと思われる」と記載しており、透門をカバーしていたのではないかと解説している。
大和小泉藩は石州の3男の片桐貞房が継いだが、茶湯指南の職を継いだ訳ではない。藤林宗源の系譜が片桐家中を出て本庄家に移ったことを考えると、おそらく片桐家では茶湯の伝承に関心がなかった時期があると考えられる。歴代の中で8代藩主片桐貞信は茶人として知られており、江戸千家の茶風を加味して新石州流と称したと伝えられるが、これもその後伝承された痕跡は残っていない。昭和初期に小泉の屋敷の主人だった水田秀光が中心となって、当時の当主である片桐貞央子爵を軸に石州流の大同団結が図られた。その結果として、戦後に財団法人「高林庵」が発足し、片桐家を宗家とする一種の家元制度が成立した。15代片桐貞泰は井沢宗達に伝授を受けている。
◆「小泉神社」
639-1042奈良県大和郡山市小泉町1451/0743-53-0233
http://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/ourcity/history/shiseki/000201.html
小泉神社本殿は、一間社春日造、屋根は桧皮葺で、千木<ちぎ>と勝男木をのせています。身舎<もや>の舟肘木、向拝の連三斗の形が珍しく、また、浜床のうえに置高欄をすえているのも類例が少ない貴重なものと言われています。全体に極彩色が施され、春日造としてもかなり装飾的なものです。建立された時期は明らかではありませんが、室町時代末ごろのものと考えられています。江戸時代の寛文年間(1661~1673)に修理が行われています。小泉の地は中世に小泉氏の居館が、また近世には片桐氏の陣屋がつくられたところです。陣屋の成立前に創建されているので、おそらく小泉氏や村人の信仰の中心としてつくられたものと推定されます。