「一休寺」元の名は「妙勝寺」であって、鎌倉時代、臨済宗の高僧大應国師(南浦紹明)が中国の虚堂和尚に禅を学び、帰朝後禅の道場をここに建てたのが始めである。然るにその後、元弘の戦火にかかり復興もならずにいたものを、六代の法孫に当たる一休禅師が康正年中(1455~6)、宗祖の遺風を慕って堂宇を再興し、師恩にむくいる意味で「酬恩庵」と命名した。禅師はここで後半の生涯を送り八十一歳で★「大徳寺」住職となった時もこの寺から通われたのであり、文明13年(1481)11月21日八十八歳の高齢を以って当寺において示寂され遺骨は当所に葬られたのである。このように禅師が晩年を過ごされたことにより「一休寺」の通称が知られるに至ったのである。
・・・もちろん「一休寺納豆」を買って帰りましたよ。
【一休宗純】
室町時代を生きた臨済宗大徳寺派の禅僧。京都生まれで幼名は千菊丸。★後小松天皇あるいは足利義満の血を引くともいわれています。6歳で京都の安国寺に入門し、周建の名前を授かりました。幼い頃より漢詩の才能を開花させ、『長門春草』を13歳のときに、15歳では『春衣宿花』を著しています。
一休の名付け親は大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)。一休の「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」の言葉から、華叟が道号として授けました。その後、さまざまな人生の紆余曲折を経て、1481年、88歳で病没。一休寺で静かに眠っています。
http://katatakankokyokai.com/193/3_2.html
「人生は(煩悩溢れる)この世から、来世までのほんの一休みの出来事。雨が降ろうが風が吹こうが大したことない」
【方丈】
http://www.ikkyuji.org/keidai_annai/houjou/houjou.html
江戸時代、1650年(慶安3)に、加賀藩・三代目藩主、前田利常の寄付によって、再建されたものです。同候は1615年(元和元年)の「大坂夏の陣」の時、大坂に向かう途中、木津川に陣をしいたときに、一休寺をお参りしたところ、一休和尚が書き残した数々の「おきて」を見て、たいそう感心し、尊敬の念を抱くと共に、寺があまりに荒れ果ててしまっている事をなげき、利常36才の時、酬恩庵の再興に乗り出したのでした。
【一休禅師木像】
方丈中央の仏間には、一休禅師木像を安置しています。この像は、一休さんが亡くなる前の年に弟子の墨済に命じてつくらせたもので、重要文化財に指定されています。この木像は、一休が自分の頭髪とヒゲを抜いて植え付けた、珍しいものです。像にはその跡が残っています。
【狩野探幽】
方丈の襖絵は、江戸時代初期の画家、狩野探幽が描いたものです。江戸時代初期の画家なので、一休さんとは直接会ったことはありません。江戸幕府の御用絵師として、二条城・名古屋城・大徳寺などの障壁画も手がけた人です。
http://www.dnp.co.jp/denshoubi/works/fusuma/i01.html
※高精細複製「伝匠美」/撮像から印刷までの高精細デジタル技術と、専用に開発した和紙、金箔地などの素材技術を結集し、精緻な再現性と次世代につなぐ耐久性を確保した文化財複製を実現しました。日本画の美術史研究にも堪える再現を可能にしました。
・・・待望のミュージアム、納得のミュージアムでした。