・・・堺市南区にある櫻井神社へ。
◆「櫻井古跡」
西側の妙見川に架かる宮橋端にある、御祭神に縁故が深く「和泉名所図絵」にも記載の古跡「櫻井」。かつては清水湧出により枯渇することがなく櫻井井戸と称されましたが、明治時代の河川氾濫で埋没、その後古跡として整備されましたが井戸は現存しません。
★国宝【桜井神社「拝殿」】
590-0121堺市南区片蔵645/072-297-0043
伝承によると、創立は悠遠の時代で、この地方に住居していた桜井朝臣の一族がその祖先である武内宿禰命を奉斎したと伝わっている。推古天皇5年(597)に八幡宮を合祀、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后を奉斎している。天正5年(1588)、織田信長の根来攻めのため拝殿以外を焼失するが、その後、再建される。明治5年(1872)郷社に列し、昭和17年(1942)には府社に昇格。
拝殿は、建築様式やその技法から鎌倉時代中期に建てられたと考えられる建物で、現存する拝殿建築のなかでも最も古いもののうちのひとつです。現在、拝殿は中央に通り抜けの通路・馬道(めどう)を持つ★割拝殿形式の建物ですが、祭礼時には、通路の両脇の蔀戸(しとみど)という建具を降ろして、床にすることができるように工夫されています。通路に面した柱には長方形の穴の跡があり、従来はこの通路の部分も板敷の部屋であったことなどが考えられています。正面から妻側にまわると、梁の間にはかえるの足のような形をした蟇股という部材があります。この形が簡単な板状のものであることや、梁の両端に彫刻がもちいられていないことなどは、鎌倉時代の建物の特徴です。内部も天井板が貼られていないので、妻側の構造技法と同様な梁や蟇股で建物が組み立てられていることがわかります。堺市内では唯一の★国宝であり、簡素で大変美しい建物です。
古来、神社は月日を経て穢れが堆積するのを良しとせず、本殿や拝殿などの神社建築は定期的に建て替えられる事が多く、それ故、古い神社建築は現存するものが数少なく、そのような中で残った桜井神社拝殿は非常に貴重な遺構です。また、長い歴史を持つ上神谷において、現在に残る文化財は何も有形のものばかりではありません。毎年10月の第1日曜日に行われる桜井神社の秋祭りでは、中世より伝わる「上神谷のこおどり」が奉納されています。これは雨の少ない和泉地方で行われてきた雨乞いの踊りをルーツに持ち、また室町時代の風流踊りの影響も見られるということで、特徴的な七種類の拍子で踊られるこの「上神谷のこおどり」は、国の無形民俗文化財に指定されています。
「絵馬堂」には巨大な赤鬼・黒鬼の二つのお面が掲げられています。これは「こおどり」が昭和44年に堺市民会館で行われたNHK「ふるさとの歌まつり」に出演した時に、NHKから奉納されたものです
【参考】神社建築(本殿)
屋根に妻を持つこと・床を高く張ること・瓦を用いないこと・土壁を用いないこと・装飾の質素なことが特徴である。
・・・続いて、貝塚市へ。
★国宝【孝恩寺「観音堂」】
597-0102貝塚市木積798/072-446-2360
http://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/kenzoubutu/ko.kannondou.html
木積の孝恩寺は、元禄7年(1694)に再興された浄土宗知恩院末の寺院です。現在の本堂である観音堂(釘無堂)は、もと観音寺という寺院の観音堂でしたが、大正3年(1914)孝恩寺が観音堂を合併したことで、以後同寺の本堂となりました。観音寺は、行基に開創されたとされる寺院ですが、天正13年(1585)の羽柴(豊臣)秀吉による紀州攻めに際して伽藍や持仏の大部分が焼失し、残された観音堂と持仏は木積村の人々によって守られてきました。観音堂は、「釘無堂」とも呼ばれ、様式的には鎌倉時代の建築と認められる大阪府下で最古の木造建造物です。桁行5間、梁間5間、寄棟造、本瓦葺で、屋根は行基葺となっています。前面2間は礼堂、その北側の中央桁行3間梁間2間を内陣、内陣の側背3面1間通りを外陣とし、周囲に濡れ縁をめぐらせます。全体的には伝統的な和様を基調とする落ち着いた造りですが、随所に禅宗様という鎌倉時代に伝わった新しい建築様式が取り入れられていることから、鎌倉時代でも後半期に属する建物と考えられています。
【参考】行基葺
丸瓦の下方が末広がりとなったものを用い、下方に置く丸瓦の細いほうを覆うように順々に重ねて葺いたもの。
・・・これで、大阪府の「国宝建築物」5件すべてを紹介することができました。さて、次はいかなる「寺社奉行」に取り組むか吟味いたしておりまする、ぬははは。