東京建築(8) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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★「花」作:松阪節三

新お茶の水ビル千代田区神田駿河台4—3ビルの入口を入ってヘラクレイトスの像に向かって左手、ATMのわきに設置された作品。「この彫刻に使われている素材は、新お茶の水ビルの骨組みの鋼材であり、材座の石は旧日販ビルの玄関の壁に使用されていたものです。六本木アークヒルズ前をはじめ、池袋メトロポリタン広場、ドイツ・バイロイト歌劇場などのパブリックアート作品で知られる現代彫刻家です。

★「安らかなるもの」作:吉野毅

昭和18年生まれ。千葉県出身。東京芸大卒。昭和43年二科展に初出品し、特選。49年二科会会員。57年二科展ロ一マ賞。平成15年二科展文部科学大臣賞。精神性の高い品位のある女性像を中心に創作。平成24年二科展出品作「夏の終り'11」で芸術院賞。二科会彫刻部理事、多摩美大客員教授。


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★「アイガーそして山、山」作:阿部盛有

1929岩手県金ケ崎町に生まれる1959横浜国立大学美術専攻科修了1971二科展特選1972千葉県展最高賞1981二科会会員となるモザイク壁画(~'85金ケ崎小学校・幼稚園・西部公民館・中央生涯教育センター、'86川崎サレジオ志願院、'94お茶の水ビル計量生活会館、'97 千葉県印旙郡本埜村ふれあいプラザ)1996油彩壁画(南花巻渡り温泉HOTELさつき館)現在、二科会会員(審査員)


●幽霊坂(別名:光感寺坂、埃坂千代田区神田淡路町二丁目

もとは★「紅梅坂と続いていましたが、大正13年(1924)の区画整理の際、本郷通りができたため二つに分かれた坂になりました。「東京名所図会」には、「紅梅坂は」「往時樹木陰鬱にして、昼尚凄寂たりしを以って俗に幽霊坂と唱えたりしを、今は改めて紅梅坂と称す」とかかれています。また古くは光感寺坂とも埃坂などとも呼ばれていたこともあるようですが、一般には幽霊坂の名でとおっています。

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★「SWING IN THE AIR」作:西野康造

http://nishinokozo.com/

1951兵庫県生まれ、1977京都市立芸術大学彫刻専攻科を修了。80年代から一貫して金属を素材とした作品を作り続けてきた。2013年秋にはNY9.11メモリアルパークの高層ビル「4 World Trade Center」内に「Sky Memory」がパブリックアートとして設置された。

◆「WATERRAS

東京都千代田区神田淡路町二丁目101,105番地03-3526-3555

http://www.awaji-am.com/

淡路小学校

街のシンボリックな存在、今なお人々の心に生き続ける学び舎神田淡路町は夏目漱石や森鴎外、樋口一葉などの文豪にゆかりのある街。明治(1871)年には、神田淡路町丁目付近に共立学校が設立され、南方熊楠や正岡子規、黒田清輝、島崎藤村らが学んでいます。この高い文化性を誇る界隈で初等教育を担う学校として、明治(1875)年、神田小川町1番地に開校したのが淡路小学校です。当時は小川小学校と称していました。平成(1993)年に、学校設置条例の改正に伴い、芳林小学校と統合して昌平小学校となることが決定。地域の人々の心の拠であり続けた学び舎は、惜しまれながら117年の歴史に幕をおろしたのでした。


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■「湯島聖堂」

113-0034東京都文京区湯島1-4-2503-3251-4606

http://www.seido.or.jp/

徳川五代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄年(1690)湯島の地に聖堂を創建して上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移しました。これが現在の湯島聖堂の始まりです。その後、およそ100年を経た寛政年(1797)幕府直轄学校として、世に名高い「昌平坂学問所(通称『昌平校』)」を開設しました。明治維新を迎えると聖堂・学問所は新政府の所管するところとなり、当初、学問所は大学校・大学と改称されながら存置されましたが、明治年(1871)これを廃して文部省が置かれることとなり、林羅山以来240年、学問所となってからは75年の儒学の講筵は、ここにその歴史を閉じた次第です。ついでこの年わが国最初の博物館(現在の東京国立博物館)が置かれ、翌年(1872)には東京師範学校、わが国初の図書館である書籍館が置かれ、年(1874)には東京女子師範学校が設置され、両校はそれぞれ明治19年(1886)、23年(1890)高等師範学校に昇格したのち、現在の筑波大学、お茶の水女子大学へと発展してまいりました。このように、湯島聖堂は維新の一大変革に当たっても学問所としての伝統を受け継ぎ、近代教育発祥の地としての栄誉を担いました。大正11年(1922)湯島聖堂は国の史跡に指定されましたが、翌12年(1923)関東大震災が起こり、わずかに入徳門と水屋を残し、すべてを焼失いたしました。この復興は斯文会が中心となり、昭和10年(1935)工学博士東京帝国大学伊東忠太教授の設計と㈱大林組の施工により、寛政時代の旧制を模し、鉄筋コンクリート造りで再建を果たしました。この建物が現在の湯島聖堂で、昭和61年度(1986)から文化庁による保存修理工事が、奇しくも再び(株)大林組の施工で行われ、平成年(1993)月竣工いたしました。

■「神田明神」

101-0021東京都千代田区外神田2-16-203-3254-0753

http://www.kandamyoujin.or.jp/

江戸東京に鎮座して1300年近くの歴史をもつ神田明神。江戸時代には、「江戸総鎮守」として将軍様から江戸庶民にいたるまで江戸のすべてを守護されました。そして今もなお、東京―神田、日本橋、秋葉原、大手町・丸の内など108の町々の総氏神様として、江戸の素晴らしき伝統文化を保ちつつ、それでいて絶え間なく発展と創造を繰り返す、この東京都心をお守りいただいております。神田明神の氏子町である東京108の町は、江戸と東京の生活や文化が凝縮された町々です。これらの町々を常に見守り続ける明神様。そんな明神様を慕い敬う参拝者で、境内は毎日賑わいを見せております。


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■「明神下神田川本店」

101-0021東京都千代田区外神田2-5-1103-3251-5031

http://r.gnavi.co.jp/rah85jsh0000/

文化2年の創業以来、門外不出のタレを代々守り続ける。うなぎは浜松や焼津、四国、九州など全国各地から厳選。 炭焼きならではの芳ばしい香りが食欲をそそる。外見だけでなく、店内は格式高い木造で、2階の「月の間」などは都会にいることを忘れさせる雰囲気が特徴です。伝統を重んじる老舗ですからスタッフにも教育が行き届いており、どこか老舗の高級旅館を思わせる対応にも満足です。

・・・そして、

秋葉原事件

2008年(平成20年)日(日)に東京都千代田区外神田(秋葉原)で通り魔事件発生した。人が死亡、10人が負傷(重軽傷)した。

・・・亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。


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岩崎彌之助跡】千代田区神田駿河台4-6

http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/1683/Default.aspx

地下鉄千代田線「新御茶ノ水駅」B2出口前元は後藤象二郎邸があった場所。岩崎彌太郎の弟、彌之助と後藤象二郎の娘、早苗が結婚後、彌之助邸ができ、岩崎彌太郎も、茅町の屋敷(現在の旧岩崎邸庭園)を建設中、彌之助邸と隣接した屋敷に住みました。岩崎彌太郎没後、跡を継いだ彌之助は、三菱社本社社屋をここに移しました。現在は、淡路坂より隣のビルとの隙間から、わずかに見える赤レンガと黒い石垣が、当時の名残と思われます。

・・・体力も時間も限界です、大阪へ帰ろう。