東京建築(7) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「東京」を離れる前に「御茶ノ水」へ、なぜなら「蕨市郷土資料館」で観た「神田川」(学生時代のノスタルジア)に触発されたから、かもしれない。


おちや1


【御茶ノ水】

台地上にあり、中央部を東西に走る掘割に★「神田川(両区の境界にあたる)が流れ、また東日本旅客鉄道(JR東日本)御茶ノ水駅がある。現在では主に地域名には「お茶の水」「御茶の水」表記が使用され(道路標識等)、主に駅名関連には「御茶ノ水」表記が使い分けられている(「丸の内」「丸ノ内」も同様)。江戸時代は、付近一帯が大名屋敷地であった。現在では、地区内と周辺に明治大学、東京医科歯科大学、順天堂大学などの大学や専門学校、予備校が集る日本国内最大の学生街として知られ、また、江戸の総鎮守・神田明神湯島聖堂ニコライ堂等を始めとする宗教施設、有名病院等が多数存在。更に、国内最大の書店街・楽器店街・スポーツ店街、多くの食通を惹き付ける老舗名店街等も内包、隣接するなど、名所を多く抱える広範な文化ゾーンを形成している。古くは北側の本郷台(湯島台)と南側の駿河台が一続きで「神田山」と呼ばれていたが、将軍徳川秀忠の時代に、水害防止用の神田川放水路と江戸城の外堀を兼ねて東西方向に掘割が作られ、現在のような渓谷風の地形が形成された。同じ頃、その北側にあった高林寺から泉が出て、この水を将軍のお茶用の水として献上したことから、この地が御茶ノ水と呼ばれるようになったといわれる。また、このことから、雅称として「お茶の谷」という意味の「茗溪」という呼び名が存在し、周辺にこの名を冠した通りや商店があるほか、1872年(明治)に湯島の昌平黌に設置された日本初の官立師範学校、つまり東京教育大学を経た現在の筑波大学の同窓会「茗渓会」にその名が残されている。また、この地に縁があることから、前述の師範学校の附属学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)の校歌にも「茗渓」という呼び名が登場する。


おちや2


◆「ニコライ堂

101―0062東京都千代田区神田駿河台4-103-3295-6879

http://nikolaido.jp/

正教会の大聖堂。「ニコライ堂」は通称であり、日本に正教会の教えをもたらしたロシア人修道司祭(のち大主教)聖ニコライにちなむ。正式名称は「東京復活大聖堂」であり、イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)の復活を記憶する大聖堂である。日本正教会の首座主教座大聖堂(ロシア正教会の聖堂ではない)。建築面積は約800平方メートル、緑青を纏った高さ35メートルのドーム屋根が特徴であり日本で初めてにして最大級の本格的なビザンティン様式の教会建築といわれる。1891年に竣工し、駿河台の高台に位置したため御茶ノ水界隈の景観に重要な位置を占めた。


おちや3


聖ニコライの依頼を受けたロシア工科大学教授で建築家のミハイル・シチュールポフ(Michael A. Shchurupov)が原設計を行った。お雇い外国人として来日し民間の建築設計事務所を開いていたジョサイア・コンドルが実施設計を担当、建築工事は長郷泰輔が請負い施工は清水組(現・清水建設)が担当した。シチュールポフの原設計とコンドルの実施設計の間にどれほどの改変が行われたのかについては未だ不明である


おちや4


関東大震災で大きな被害を受けた後、一部構成の変更と修復を経て現在に至る。1962年月21日、国の重要文化財に指定された1923年9月1日に発生した関東大震災により煉瓦造の鐘楼が倒壊してドームを破壊しこの時に発生した火災によりイコノスタシスなどを含めた内部や木造部分の多くを焼損、聖堂付属の図書館・神学校なども類焼した財政上の理由からやや時間がおかれたが1927年から1929年にかけて、★「岡田信一郎」の設計により構造の補強と修復が行われ、鐘楼を低く抑えたことなどにより外観が一部変更された。改修の意匠については賛否があったと伝えられる。鐘はロシア製の大鐘1つとポーランド製の小鐘つからなっている。


おちや5


1962年6月21日、国の重要文化財に「日本ハリストス正教会教団復活大聖堂(ニコライ堂)」の名で指定されたがこれに際して岡田による旧態の改変の程度が検証された。鐘楼の上部およびドーム、ドラム部分の構造形式は鉄筋コンクリート造および鉄骨造とされた。壁体については装飾や窓廻りを含めて当初の構造意匠がよく保持されており、指定の際には主としてこれが価値を有すると認められた。またこの機会に★「コンドルがどの程度設計に関与したかが研究されたが、判然としなかった