神宮寺(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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◆【誉田八幡宮宝物館」】◆

583-0857羽曳野市誉田3-2-8072-956-0635

http://www012.upp.so-net.ne.jp/kondagu/fure-houmotu.html

設立:1974(昭和49)年3月建築面積:100㎡開館日: 毎週土曜日

開館時間:13:00~16:00入館料:一般400円

設立経緯

誉田八幡宮の縁起は、欽明天皇の勅願によって応仁天皇陵前に社殿を建立したことに始まる。八幡信仰が盛んになった結果、応仁天皇ゆかりの地に社殿が建立されたと考えられている。時代を経て、源氏の氏神が八幡であるという信仰の広まりと同時に、将軍家をはじめ、源氏を名乗る武士の信仰を受けるようになる。源頼朝は伽藍修復を行い、現在、国宝及び重要文化財に指定されている文化財を寄進した。近世には、豊臣秀吉から徳川幕府に至るまで、あつい庇護を受けた。このような経緯を経て伝来の貴重な社宝を保存公開するために宝物館を設立した。

所蔵品と展示の概要

国宝2点、重要文化財6点を所有しており、資料の状態に合わせ展示が行われている。長年の自然環境の変化による高温・多湿期間の長期化のため、「誉田宗庿縁起」および掛け軸は1次資料の展示を行わず、パネルと写真で紹介している。定期的に展示替えが行われており、不定期ではあるが企画展も実施している。資料の貸し出しも実施しているが、資料の新規収集は行われていない。資料の保存に関しては、専用の保存施設を備えており、宝物殿・保存施設ともに防火設備および24時間体制の防犯設備も整えられている。開館中は展示解説が行われる。

【参考】「神社博物館事典」★國學院大學博物館學研究室

http://www2.kokugakuin.ac.jp/museum/jinja/jinja.html


こくほ5


国宝古墳時代)「金銅透彫鞍金具2具

嘉永元年(1848)8月、応神天皇陵陪塚丸山古墳から発掘されたもので、2具の鞍金具と、金銅轡鏡板、金銅花形辻金具、鹿角装刀残闕、鉄鏃、鎧等残闕などの一括品がある。金銅透彫鞍金具は竜の文様が唐草ふうに透彫りされており、それぞれの竜が中央に向かう形で連続して配列されて鞍橋の表面全体をおおっている。製法手法の精巧さ意匠の壮麗な点で古代美術工芸の面からも欠くことのできない貴重な資料である。四世紀頃から盛んになった日鮮交流によって大陸の進んだ文物技術が移入されたという歴史的背景を如実に物語っている。

国宝鎌倉時代)「塵地螺鈿金銅装神輿1基

建久年中、源頼朝寄進と伝える。屋上に鳳凰を頂く木製の方輿。漆塗り、梨子地に螺鈿をほどこし、屋蓋ほかの要所を金銅製金具で補強する。軒先からは宝相華文透かし彫りのある幡を垂れ、軒下には同文の帽額並びに八花形の鏡をはめこんだ透かし彫りの花鬘12枚を垂れる。輿の四周に下げた布地も当代の錦織で遺例の極めて少ないものである。建築・漆工・金工・染織と鎌倉期美術工芸の粋を集めて作られた神輿でまことに貴重な資料である。


・・・さて、これまで「国宝」をあまり意識したことはなかったのですが、見れるものなら観ておくに越したことはないと思うようになりました。

国宝(National Treasures)

日本の文化財保護法によって国が指定した有形文化財(重要文化財)のうち、世界文化の見地から価値の高いものでたぐいない国民の宝たるものであるとして国(文部科学大臣)が指定したものである(文化財保護法第27条第2項)。建造物、絵画、彫刻、工芸品、書跡・典籍、古文書、考古資料および歴史資料が指定されている。法的には、国宝は重要文化財の一種である。国宝の概念はアーネスト・フェノロサが考えたものだが、法令上、「国宝」の語が初めて使用されたのは1897年(明治30)の古社寺保存法制定時である。

文化財保護法による国宝の指定対象となるものは有形文化財であり、古墳、貝塚、住居跡などは国宝指定の対象とはなっていない。

有形文化財でありながら国宝・重要文化財の指定対象とされていないものに、皇室関係品がある。御物(ぎょぶつ、皇室の私有品)および宮内庁(書陵部、三の丸尚蔵館、京都事務所、正倉院事務所)管理の文化財は文化財保護法による国宝、重要文化財、史跡、特別史跡等の指定の対象外となっている。これらを国宝等の指定対象外とするということは文化財保護法に明文規定があるわけではなく、第二次世界大戦以前からの慣例となっている。したがって正倉院宝物、桂離宮、修学院離宮などは国宝の指定対象となっていない。


大阪府の文化遺産は、国宝建造物5件、国宝美術品55件、国指定の重要文化財455件あります。

観心寺金堂(河内長野市)・孝恩寺観音堂(貝塚市)・桜井神社拝殿(堺市)・慈眼院多宝塔(泉佐野市)・住吉大社第一殿~第四殿(大阪市)

・・・えっ~「国宝建造物5件」しかないの?と思いました。「美術品」は「宝物庫」などに厳重保管され、そうそういつでも観れるわけではありません。しかし「建造物」は入れないまでも観れる可能性は高く、行ってみる価値はあります。さて、この5件の中の神宮寺「慈眼院」は、泉佐野市にあります。


こくほ1


◆「日根神社

598-0021泉佐野市日根町631072-467-1162

http://www.rinku.zaq.ne.jp/hine-jinja/

和泉国日根郡の式内社で、和泉五社の一つ(和泉国五宮)。御旅所は大阪府泉佐野市の熊野古道沿い、府道66号線沿いにある。創建は明らかではない。霊亀二年(716)に制定された和泉五社のうちに数えられており、延喜式内社日根郡十座のうちに列せられていることから、1200年以上前であると考えられる。聖武天皇の御代、天平十四年の大旱魃の際には五百石を賜っている。現在の本殿は、社伝によれば天正年間(15731593)に兵火によって焼失したものを、豊臣秀頼が再建したものと言われている。明治年(1873)には郷社定則により郷社に指定され、大正13年(1924年)には府社に昇格した。この本殿は昭和47年(1972)月31日に府指定有形文化財(建第20号)に指定されている。


こくほ2


毎年、5月の日根神社例祭「まくら祭り」は、のぼりに色とりどりの枕をつけて村々を巡行する特色ある祭りです。子宝に恵まれない村の若嫁が子授けを願って奉納した枕を、お祭りの幟にくくりつけて渡御したのがはじまりと言われています。やがて、良縁にめぐり合えるよう縁結びを祈ったり、疫病が流行しないよう祈る際に村人が枕を奉納したりするようになり、これらの祈願枕をつけた幟を担いで御渡りするようになりました。そこからまくら祭りが始まりました。やがて、枕ということで不眠に悩む方がお参りに来られて、祈祷してほしいという声が集まるようになりました。また、遠方の方から、枕を送るのでおはらいしてもらえますか?というお問い合わせをいただくようになるなど、「枕の神社」として周知されるようになりました。

7月の「ゆ祭り」には五社音頭踊りが奉納されます。昔、大井関大明神と呼ばれていたことから、隣接する「ろじ渓」に大井関公園があります。大井関の名は境内を流れる井川を司る神社であったことに由来するものと考えられます。大阪みどりの百選に選ばれており、岩がつくる景観と谷底の清流、周囲を取り巻く桜ですばらしい雰囲気を創りだしています。


こくほ3


慈眼院・国宝「多宝塔

598-0021泉佐野市日根野626072-467-0092

http://www.jigenin.or.jp/pages/index.html

真言宗御室派の寺院。山号は大悲山。近世末までは、隣接する日根神社★「神宮寺であった。国宝の多宝塔は石山寺塔、金剛三昧院塔とともに日本の多宝塔の三名塔の一つとして知られる。屋外にある木造多宝塔で国宝・重要文化財に指定されているものの中では日本最小。また境内が「日根荘遺跡」の一部として国の史跡に指定されている。仏塔古寺十八尊第十二番。伝承によれば、天武天皇年(673)、天皇の勅願寺として、井堰山願成就寺無辺光院の名で覚豪阿闍梨により開創され、奈良時代の天平年間、聖武天皇の勅願寺となり、寺領1千石が加増されたという。その後、弘仁年(815)、空海(弘法大師)によって多宝塔、金堂をはじめとする諸堂が再興されたと伝える。南北朝の正平年(1353)、戦火を受けて焼失。その後、後村上天皇と後亀山天皇の勅命により再興された。慈眼院の位置する日根(日根野)荘は、五摂家の1つである九条家の荘園であった。文亀元年(1501)から年間、前関白の九条政基が日根に滞在して領地の直接経営にあたり、日記「政基公旅引付」(宮内庁書陵部蔵)を残している。天正13年(1585)には豊臣秀吉の根来寺攻めの兵火を受けて、金堂、多宝塔を除いた全山が焼失。その後慶長年(1602)、豊臣秀頼によって伽藍の再興が始められ、奥之坊・山之坊・明王院・戒躰院・稲之坊・中之坊・下之坊・東方寺・上之坊・明神社・観音堂・毘沙門堂・護摩堂の堂宇が建立された。寛文年間には岸和田藩藩主岡部氏により修復が行われ、寛文年(1665)、中之坊が仁和寺の性承門跡から現在の院号「慈眼院」を賜り、仁和寺の末寺となった。


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・・・大井関公園「ろじ渓」に行ってみましょう。