神宮寺(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・はじめに、「ミュージアム」の中で「寺社」を紹介してきましたが、単独テーマとし、より個性的(恣意的)に紹介していきます。気になること・調べたいことが多くあり「寺社奉行」というテーマにしました。

【寺社奉行】

室町時代から江戸時代にかけての武家政権や江戸時代の諸藩における職制の1つで、宗教行政機関。鎌倉幕府以降、寺社の領地・建物・僧侶・神官のことを担当した武家の職名。江戸幕府では将軍直属で三奉行の最上位に位置し、楽人(雅楽演奏者)・陰陽師・囲碁将棋師に関する事項をも扱った。

三奉行

評定所訴訟を扱機関・場所)の中心的な構成員であり、三奉行以外には老中が1名加わった。それぞれが対等の関係ではなく、一般に勘定奉行・町奉行が旗本1万石未満から任命されるのに対して、寺社奉行は譜代大名から任命され、三奉行の筆頭格とされた。


・・・さらに、知っておきたいこととして、

【廃仏毀釈・廢佛毀釋排仏棄釈

仏教寺院・仏像・経巻を破毀し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃することをす。「廃仏」は仏を廃し(破壊)し、「毀釈」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味。日本においては一般に、神仏習合を廃して神仏分離を押し進める、明治維新後に発生した一連の動きをす。


神宮寺

日本で神仏習合思想に基づき、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂。別当寺、神護寺、神願寺、神供寺、神宮院、宮寺ともいう。別当寺は、神社の管理権を掌握する場合の呼称と考えられる。宮寺は、神宮寺を意味するほかに、石清水八幡宮寺や鶴岡八幡宮寺のように、神祇の祭祀を目的とし、境内には神社のほか仏教施設や山内寺院が立ち並び、運営は仏教僧・寺院主体が行った、神仏習合の社寺複合施設または組織をいうこともある。日本に仏教が伝来した飛鳥時代には、神道と仏教は未統合であったが、平安時代になり、仏教が一般にも浸透し始めると、日本古来の宗教である神道との軋轢が生じ、そこから日本の神々を護法善神とする神仏習合思想が生まれ、寺院の中で仏(本地)の仮の姿である神(権現あるいは垂迹)を祀る神社が営まれるようになった。鎌倉時代、室町時代、江戸時代では、武家の守護神である八幡神自体が「八幡大菩薩」と称されるように神仏習合によるものであったため、幕府や地方領主に保護され、祈祷寺として栄えた。しかし、そのために檀家を持たなかったため、明治時代の廃仏毀釈でほとんどの寺院が神社に転向、あるいは消滅するなどし、急速に数を減らした。

神社と神宮寺のどちらが主体かは断言できないが、神祇のための寺院という神宮寺本来の役割を考えれば、神社なしの神宮寺はありえないため、宗教施設としては神社が中心といえる(神社がなければ神宮寺と称する必要がない。)。逆に寺院のための神社の場合は、鎮守社という(この場合、寺院あっての神社であり、寺院なしの鎮守社はありえない)。


神宮寺(1)


・・・ふっ~、知らないことだらけですね。これまでの疑問(わだかまり)が少しは和らいだ気がします。さて、秋祭り間近の、最も近くて有名な「誉田八幡宮」から始めます。


こんだ1


【誉田八幡宮】

583-0857羽曳野市誉田3丁目-2-8072-956-0635

http://www012.upp.so-net.ne.jp/kondagu/

社伝では、欽明天皇の命により、応神天皇陵の前に社殿を建立したのに始まるとしており、そこから「日本最古の八幡宮」を称している。実際には、もっと後の八幡信仰が盛んになった時代に建立されたものとみられる。永承6年(1051年)、元の鎮座地から1丁(約100m)ほど南の現在地に遷座した。八幡神が源氏の氏神とされることから、源氏姓を名乗る歴代の将軍をはじめ、武家の信仰を受けた。南北朝時代から戦国時代にかけては、別当職の誉田三河入道一族によって保護されたが、享徳3年(1454年)より始まった河内守護・畠山氏の内輪争いにより社殿・伽藍を焼失し荒廃した。河内国を支配下に置いた織田信長により、社領を全て奪われた。その後、豊臣秀吉は社領200石を寄進し、社殿を再建した。天正14年(1586年)に社殿が焼失したため、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任命して社殿再建を行ったが、拝殿の建造中に大坂夏の陣・豊臣氏滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなっている。江戸幕府も200石の社領を安堵し、数度にわたり社殿の修復を行った。神宮寺として★「長野山護国寺があったが、明治初年の廃仏毀釈により大半の建物が取り壊され、現在は★「南大門のみが残る。

★1801河内名所圖會

享和元年(1801年)に刊行された『河内名所圖會(図会)』の「應神天皇陵」の絵図の中には、後円部の麓から一直線に陵頂に上る階段と陵上の六角堂が描かれています。さらに、応神天皇陵についての説明本文の中には、当時の様子を知ることのできる記述が見られます。「…陵上に、近年、六角の宝殿を建る。外側にも亦、六角の塗塀を立たり。(中略)陵道一町計、左右に桜を植て、石灯炉二十基、其下に宣命場中門あり。これより、雑人、陵上へ登る事を禁ず。過って昇る時は神祟あり。四辺に、古松繁茂し、赤土壺、山陵に多く陻めり。蓋、これは殉死の代(かわり)として、宦人の名をしるしてこゝに埋む。一説には、これに雨水を湛えて、山陵の崩れざる用意と聞へし。」とあります。「山陵に多く埋められていた赤土壺」とは、円筒埴輪列のことだとわかります。また、陵上の六角堂へは、一般人が登ることは禁止されていたこともわかります。祭礼の時に神職や社僧が登ったものと思われます。


こんだ2


★1838【河内国誉田八幡根本社内之図

天保1838の「河内国誉田八幡根本社内之図」見ると、正面には社殿があり、社殿の右手には橋を渡って誉田山古墳の後円部に建つ角の塔と参道がつながってい。塔や鐘楼、また現在社務所のところには寺院の伽藍が立ち並び、神宮寺「長野山護国寺」としてにぎわっていたことが伺える



1853【西國三十三名所圖會


こんだ3


2005【復刻・文久山陵図】作:鶴沢探真出版:新人物往来社

「文久山陵図」は、慶応3年に戸田忠至が大和・河内・和泉・摂津・山城・丹波の6ヶ国に存在する47陵の荒蕪と成功の彩色画を朝廷と幕府に献上したものです。現存する天皇陵の原点である文久期の修陵事業を記録した絵画完全復刻国立公文書館内閣文庫所蔵「山陵図」と宮内庁書陵部所蔵「山陵考」をあわせて復刻。図画にあってはオリジナルの色調を、文章の翻刻にあっては原本の文言や体裁をそのまま表現しました。

古代に築造された高塚をなす墓古墳は各地につくられたが、なかでも天皇皇后などを葬る山陵は、律令の時代には国家の管理の下にあって祭祀も行われ守護されていた。しかし時代が下るにつれて荒廃が進み、開墾されて田畑になったり所在がわからなくなってしまったものも少なくなかった。江戸時代中期、国学・勤皇思想の勃興を背景にようやく山陵にも関心が向けられるようになり、元禄時代には徳川幕府も山陵の調査や補修に着手し大和地方は奈良奉行に、摂津・河内・和泉は大坂城代に命じて、元禄山陵図と称される山陵ごとの図や由緒書を作成提出させた。山陵図はその後享保・文化・文政・安政・文久・明治の各年間にも作られ、また研究家や絵師の作った図やこれらの転写図なども存在する。

かつては、誉田八幡宮の神域に含まれていた。中世の正平年間(1346-70)には★「誉田城が築かれていたという。江戸時代、幕府による数度の修復においては一貫して誉田御廟山古墳が応神天皇陵として修復された。幕末の文久の修陵においては、誉田八幡宮と分離され、北側の前方部に新たに拝所が設けられた。1864年(元治)月に開始され、1865年(慶応)月に竣工した。3050両が費やされたという。これは実に神武天皇陵に次ぐ経費であった(『文久山陵図』)。これが現在の形態の基礎となった。江戸時代中期に後円部墳丘上部に誉田八幡宮により★「六角堂が建てられたが、1883年(明治16)に撤去された。周囲は史跡「応神天皇陵古墳外濠外堤」に指定されている。治定陪冢が域内に基、域外に基ある。


こんだ4


楽車

大坂の絵師・丹羽桃渓1760~1822が描いた「河内名所図会1801」では『誉田の楽車は古風にして外の囃子とは違ふ也。これだんじりの始まり也とぞ』との記載があり、また「摂津名所図会」にも、「車楽は旧河内国誉田祭よりはじまり」などと記されており、誉田神社の「車楽」三輪車形式は、地車の元祖だと推測されている。


こんだ5


放生橋長さ4m、幅3m、高さ3.5m

放生川に架かる花崗岩製のこの反橋は、鎌倉時代に造られたと伝えられており、通常は立入禁止となっていますが、毎年9月の誉田八幡宮例祭の夜には、神様をお乗せした★「鳳輦が人々に担がれてこの橋をお渡りになり、誉田八幡宮から応神天皇陵の濠のほとりへと渡御し、そこで祝詞奏上や神楽奉納などの神事が行われす。

鳳輦(ほうれん)

「屋根に鳳凰の飾りのある天子の車」を意味する言葉で、日本においては、古くから、天皇の正式な乗り物を意味するほか、現代では神社の祭りなどに使われる、鳳凰の飾りがある神輿を意味する。


・・・今年の「秋祭り」も楽しみです。