・・・ずいぶんと昔のことです。富田林か河内長野あたりだったと思うのですが、研修会で「ガラス工房」の見学に行きました。狭い工房にバーナーの炎がきらめき、★「びーどろ(ポッペン)」の制作を間近で拝見させていただきました。「びーどろ」をお土産にいただきましたが、ガラスの「眼球」に魅せられ無理をお願いして頂戴しました。その後、誰かにあげてしまって、今は手元にありません。
【ビードロを吹く娘】作:喜多川歌麿
https://www.adachi-hanga.com/staffblog/000602/
数ある美人画の中で最も高い知名度と人気を誇る、市松模様の着物を着こなし、手にしたビードロをくわえる少女。袖を揺らす春風が今にもこちらへ吹いてきそうな、軽やかで生き生きとした佇まい。赤い市松模様の着物が印象的な本図は、当時評判だった町娘を描いた爽やかな作品です。1955年に発行された★日本初となるカラー印刷の記念切手の絵柄に選ばれ、プレミアが付くほどの人気を呼んだことでご存じの方も多いかと思います。その絵柄はよく知られている本図ですが、オリジナルの現存数は意外に少なく、所蔵は東京国立博物館やホノルル美術館、メトロポリタン美術館など。美術展でも実物を目にする機会が少ない、★実は希少な作品です。ビードロは、別名をポッペンとも呼ばれるガラスで出来た舶来品の玩具。既に海外からの新しい風が庶民にまで伝わり出した時代の空気を感じさせます。雑誌もテレビもない時代に、一番新しい★「今」を伝えた浮世絵。その当時の新鮮な勢いが、今なお色褪せない魅力となって人を惹きつけるのかもしれません。
【ぽぴん】
近世のガラス製玩具。ぽっぺん、ぽんぴん、ぽっぴんともいい、ガラス製なのでビードロともいう。首の細いフラスコのような形をしていて、底が薄くなっており、長い管状の首の部分を口にくわえて息を出し入れすると気圧差とガラスの弾力によって底がへこんだり出っ張ったりして音を発する。玩具として用いるほか、旧正月などで厄払いの願いをこめて吹くこともある。
【NEWS】見るも涼しげ福岡・筥崎宮で名物「ちゃんぽん」の絵付け(朝日新聞より)
「放生会」に向け、福岡市東区の筥崎宮で名物のちゃんぽんの絵付けが最盛期を迎えた。6人の巫女たちが赤色や青色のアクリル絵の具を使い、ガラス製のちゃんぽんに花火やウサギの絵柄を描いていった。ビードロともいわれ、息を吹き込んだり吸ったりするとペッコン、ポッコンと音をたてる。8月下旬までに10種類2千個を仕上げるという。
【「筥崎宮」放生会】福岡市東区箱崎1-22-1/092-641-7431
日程:9月12日~9月18日(毎年固定)。博多の三大祭り放生会は「全ての生命あるものを慈しみ、秋の実りに感謝する」お祭りです。その起源は「合戦の間多く殺生すよろしく放生会を修すべし」という御神託によるもので、千年以上続く最も重要な祭典です。また、一年おきに御神幸(御神興行列)が行われ、七日間の期間中は参道一帯に数百軒の露店が立ち並ぶ、九州随一の秋祭りです。
【飯降喜三郎】(1920~1990)
★富田林市のとんぼ玉作家(1920-1990)。氏の師匠の先々代は、チェコ人からとんぼ玉の作り方を伝授してもらったといい、ヨーロッパの玉作りの伝統をひくとのこと(参考:里文出版「きらめくビーズ」等)。古代玉の復元制作等に力を注いだ。"世界のとんぼ玉"、"バーナーで作る手作りとんぼ玉の本"に作品が掲載されています。
【飯降喜三雄】(~1993)
とんぼ玉作家。大阪府から後に三重県に移転。父は飯降喜三郎氏。古代玉の復元制作等に力を注いだ(参考:里文出版「きらめくビーズ」等)。Glass Bead Masterとして海外での評価も高い。"トンボ玉 新装版"、"バーナーで作る手作りとんぼ玉の本"に作品掲載。"トンボ玉 新装版"では、氏によるフェニキアの人頭玉、ローマンのモザイク玉・人面玉、捩り玉(正倉院玉)、アイヌ玉の再現製作が紹介されています。1993年9月22日に他界。
【参考】2012年1月22日(日)『鑑賞マニュアル美の壺』より
http://tvtopic.goo.ne.jp/program/nhk/6948/539726/
★和泉市では「フェイクパール」が作られている。フェイクパールは、ガラス玉をコーティング溶液に浸けることで作成する。ガラスのビーズは紀元前から使われており、小瀧千佐子さんはヴェネチアのビーズの美しさについて語った。ヴェネチアのビーズには金箔が埋め込まれている「ソンメルソ」などがある。また、小瀧千佐子さんはアフリカとの交易を目的に作られたビーズ「アフリンカン・トレード・ビーズ」を紹介。東京・高円寺の店では和製ガラスビーズ「とんぼ玉」が販売されている。★「KOBEとんぼ玉ミュージアム」館長の宮本恭輔さんはとんぼ玉の魅力を語った。とんぼ玉はオランダから長崎出島にもたらされたのが始まり。「江戸とんぼ」として人気を博したが、幕府はぜいたく品として禁止令を発布。明治の頃には作り手がいなくなり、とんぼ玉の製造は途絶えた。しかし★飯降喜三郎★飯降喜三雄が現代で、とんぼ玉の復活を成し遂げた。内田敏樹さんはとんぼ玉のガラスの内側に奥行きのある世界を描くことで知られている。
【今村知子】私の人形に対する思い
ちっちゃい時「大きなったら、なんになりたいのん?」と聞かれたら「かみいさん、えかきさん、だいくさん、洋裁する人」と答えた。そのどれにもなれなかったけれど、ノミを使って、彫って、きれいにお化粧して、髪を結って、服を縫って、着せてあげるにんぎょさんが、ものすご好きやった私にはちっちゃい時からの夢が一度に全部叶うこと。そんなこと他にあるやろうか?だあれも持ったはらへん どこにも無い かいらしい かいらしいにんぎょさんが作りたい。飾っておくだけのはいやや、抱っこも出来て服も着せ替えが出来んと、かなん。と、言うことで、私の作る人形は木曽檜で彫って、故★飯降喜三雄氏のガラスの眼を入れ、関節が動き、着せ替えが出来るものです。大きさは約55センチで抱っこするとちょうど良い重さです。10歳から人形を作り始め還暦を迎えた今、眺めているだけで心が和む可愛い人形をと願って作っています。
※お弟子さんたち
・船越美智代 飯降喜三郎・飯降喜三雄に師事
・大鎌康弘 1990飯降喜三雄氏に師事
・増井敏雅 1991飯降喜三雄氏に師事
・行武治美 1992飯降喜三雄氏のTeaching Assistantを勤める
【MIYABI GLASS STUDIO】
★飯降喜三雄氏の流れを受け継ぎ「グラスアイ」を制作しています。ランプワーク暦30年の経験(増井敏雅)とスタッフそれぞれの個性を活かし一品一品すべてハンドメイドで制作しています。今までのグラスアイの概念にとらわれず、常に新しい色、オリジナル虹彩、形状などの可能性を求め続けています。人形制作者が、愛情や想いを込めて作り出す人形達。その大切なパーツとして使用されるグラスアイ。グラスアイの制作には、ある程度の技術や経験も必要と思いますが、それだけではなく、人形制作者の想いにお応え出来ますよう、「心のこもった良いグラスアイを」という気持ちからグラスアイ制作に向かっています。
【グラスアイなや】
http://naya.chu.jp/glass_eye_naya_index.html
わたしが、初めてバーナーワークを習ったのは、★飯降先生でした。飯降先生は古代のとんぼ玉の復元などに大きな力を注がれた方で、わたしが通っていたガラスの学校のカリキュラムのひとつとして、バーナーワークの講師をしていらっしゃいました。授業の第一日目に、黒板に大きな字で「飯降喜三雄」と縦書きされて、「メシが三度降ってきて喜ぶ男、イブリキサオです。よろしく!」と自己紹介された時は、ちょっとびっくりしました。
『グラスアイなや』では、ドールのためのオリジナルのグラスアイを創作してます。ガラスで作品を作っているなやが、北海道の大自然の中で感じたインスピレーションを、グラスアイに表現しています。グラスアイは、主に「バーナーワーク」というガラス技法で作られます。なやのグラスアイは、1000℃前後の高温の炎が出るバーナーでガラスを熔かして、丁寧に手作りしています。
【日本人造真珠硝子細貨工業組合】
594-0006和泉市尾井町2-2-19/0725-41-2133
http://www.tourism-industry.izumi.osaka.jp/contents/tokusan/jinzousinju.html
人造真珠工業は、明治末期、光珠商であり貿易商であった大井徳次郎氏がフランス製品を入手し、その研究を当時の大阪商品陳列所所長平賀義美氏に依頼したことに始まるといわれています。そして大正にはいると、ガラス玉を原玉とする現在の人造真珠が作られることになり、その後、プラスチックの原玉も使われるようになりました。さらに養殖真珠と同じ貝核を原玉とした「貝パール」と呼ばれる人造真珠も作られるようになりました。現在人造真珠は世界の国々において日本の代表的なアクセサリーとして知られ、独特の高度な技術により優れた製品を生みだしています。
※上田真珠硝子工業所
http://brand.sen-shu.com/uedashinjugarasu/
【参考】株式会社「カノコ」代表取締役・奥野勇
556-0001大阪市浪速区下寺3-6-11/06-6631-6220
私が初めて飯降氏親子に出会ったのは、昭和52年の夏頃だった。それが日本のガラス細工との出会いでもあった。当時、或る大型テーマパークの催事企画の仕事に携わっていた私は、施設の来場者に地元、泉州の地場産業であるガラス細工を紹介しようと思いつき、その協力を得る為、★富田林市の田園に囲まれた師の御自宅兼工房を訪れた。以来、喜三郎、喜三雄親子のガラス細工に対する並々ならぬ情熱に感銘を受け、おこがましくもその時、斜陽の道まっしぐらの状態であった「地場産業を復活させるのは自分しかいない」との想いを抱くまでには、さほど時間がかからなかった。その後、色々な方との出会いがありなんとか現在に至っている。
※職人さんがガラス細工を作ってる様子
https://www.facebook.com/kanoko.ism/videos/483878638385740/
【松本正雄】THE GLASSMOON(ザ・グラスムーン)
581-0082八尾市相生町4-3-13/072-992-6613
http://www.kuripa.co.jp/cgi-bin/ag/ag_personal.cgi?lang=ja&id=103
★富田林市の飯降さんの工房に伺ったことがある。そこでは父子二人が並んで仕事をしていた。当時70歳代に見えた父が作っていたのがガラスの★眼球だった。「この眼球はわししか作れない」という自慢の逸品だった。手にとってよく見ると、なるほど黒目の中に白い虹彩が放射状に広がる美しいものだった。ご本人はそれから数年もしないうちに亡くなり、東京ガラス研究所で教えていた息子さんもまだ40代くらいではなかったかと思うが、早世してしまった。そしてその技術は???
・・・そして、この「硝子物語」を始めようと思い立ったのです。