・・・堺巡りの途中、「堺駅」の赤丸ポストは健在かどうか確認に行きますと、
【南海堺駅内郵便局】
590-0985堺市堺区戎島町3-22-1/072-224-0110
http://map.japanpost.jp/pc/syousai.php?id=300140329000
【堺駅観光案内所】南海堺駅ビル1F及び堺駅西口改札横の2ヶ所
590-0985堺市堺区戎島町3-22-1/072-232-0331
http://www.sakai-tcb.or.jp/service/
http://www.sakai-tcb.or.jp/spot/spot.php?id=349&bk=1
堺観光をより便利に快適に楽しんでいただくため、堺まちあるきマップなどのパンフレットをはじめ、堺観光に関する情報が用意されています。観光ボランティアガイドも常駐し(10:00~16:30、年末年始を除く)堺観光の相談ができます。また、レンタサイクルの貸出もあります。(1日300円)堺駅観光案内所は、南海堺駅ビル1Fと堺駅西口改札横の2ヶ所。南蛮貿易で栄えた中世堺の面影を残す堺駅周辺の観光の起点に最適。堺駅西口改札横では堺の地場産業の展示もおこなっています。平成20年度より、矢作工務店(矢作如乃丸、大工・池田進)様よりご寄贈いただいた茶室模型の展示を開始しました。
・・・さて、千利休の実家・堺から「大坂・利休屋敷」へ。
◆「玉造稲荷神社」(豊津稲荷社)
540-0004大阪市中央区玉造2-3-8/06-6941-3821
http://www.inari.or.jp/shamusho/index.html
★「千利休居士顕彰碑」
大坂城三ノ丸にあたる当社の南西は玉造禰宜町(現玉造町)と称し、豊臣時代「利休屋敷」があったと伝えられ、当時お茶の水をこの邸内の井戸にて汲まれ付近の清水谷の地名も、これら良質の水脈が存在するために名付けられたと『摂津名所図会大成』に記されております。今般土地柄利休居士の遺徳を偲ぶことは誠に意義深いことであります。昭和52年5月
★「利休井(玉造清水)」
http://www.inari.or.jp/ido/index.html
豊臣時代の千利休は玉造・禰宜町(当神社南側)に屋敷を構えた。この一帯は清水谷などの地名が残るように玉造清水と呼ばれる良質の水が得られ、利休が茶の湯に愛用したと『摂津名所図会大成』に記されている。また、当神社でも利休が生駒山系を眺め茶会を催したとの伝承が残り、利休ゆかりの地・玉造として昭和52年に「千利休居士顕彰碑」も建立された。平成18年には、同じ水脈であるこの利休ゆかりの井戸を大阪城甲冑隊(代表・河井計実)や大阪府立東住吉総合高等学校の福井一夫教諭や学生の協力のもと当時を偲ぶ井戸が再掘され、現代に甦った。
※玉造清水/下清水町にあり。字を九軒といふ。初め傾城町玉造にありし時、九軒茶屋といふ。近世まで隔子作りの家残れり。またこの辺に伏見坂町といふ遊女町あり。これも後世道頓堀の南に移れり。今の坂町の旧地なり。
★「豊玉庵」
http://www.inari.or.jp/shamusho/chasitu.htm
玉造稲荷神社界隈は豊臣時代には、大坂城内にあたり、豊臣家、千利休ゆかりの地であります。創祀二千年を奉祝し、平成元年春に建てられました参集殿2階には、千利休居士十五世、千宗室お家元、命名の茶室「豊玉庵」がその由緒深いたたずまいを見せています。また徳川時代の大坂城代、松平輝和侯の屋敷庭園も再現されております。豊臣、徳川と大坂城の守護神として篤い崇敬を受けた当神社は、その連がりが深く、今日に至っても豊臣家ゆかりの「だんご茶会」が秋に催されております。一方神社南側(玉造公園付近)には利休屋敷跡と利休井があったと伝えられるほか、門人の細川越中守忠興侯(三斎流)の「越中井」が現存しており、また、もう一人の門人であった古田織部正邸(織部流)の「山吹井」も存在したと「攝津名所図会大成」等に記されております。