堺・寺社巡り(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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織田信長の登場は堺を中世から近世の都市へと大きく動かす契機となりました。永禄11年(1568年)9月、足利義昭を擁して入洛した信長は、尼崎、堺などの諸都市に矢銭(軍用金)をかけ、堺などが拒否の姿勢を示すと、一方で軍事的圧力をかけながら、他方、都市内部に手を入れてその自壊を待ちました。室町幕府の権力が弱体化するに伴い、堺も細川・畠山・三好・松永など実権をにぎる大名たちや、一向宗・法華宗などの宗教勢力との連携を探る必要が生じてきました。なかでもこの時点で有力であったのは、阿波(徳島県)に本拠を置く三好氏と石山本願寺を中心とする一向宗でした。会合衆のなかでも三好に親しくするもの、本願寺に近づくもの、それらと別の立場をとろうとするものなど内部に分裂が生じており、信長はそこを巧みについたのです。



めくり1


堺が同じく自治都市的展開をみせていた摂津平野郷(大阪市)に誘いをかけ、信長に抵抗の姿勢を示したのは事実で、その中心は能登屋・紅屋などの有力商人であったといわれ、市民は掘を掘り、櫓をあげて戦いにそなえたとされています。しかし三好氏が信長に敗退すると、その抵抗運動も後備えを失い、解体していきました。三好氏を支援したとして堺に弾圧を加えた信長は、将軍義昭に対し、堺に代官を置くことを願いでて、今井宗久を堺の代官に任命しました。宗久は会合衆の一人と推定され、信長が入洛するとすぐに、当時世に隠れなき名物とされた松嶋の壺・紹鴎茄子(茶器)を献上し、親信長の姿勢を明確にしました。宗久は薬屋宗久とも呼ばれ、信長に火薬を提供し、我孫子(大阪市)に吹屋(精錬工場)を置いて鉄砲製造にもかかわっていました。


めくり2


◆「常安寺

5900946堺市堺区熊野町東5-1-12072-222-1387

http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/shokai/bunya/cyokoku/amidanyorairi.html

心光山観音院と号し、慶長12年(1607)、豊臣家の家臣で堺に移り住んだ金田常安という人物が、融誉浄円を開山に迎え建立した浄土宗の寺院です。この寺の本尊は、来迎印を結び衲衣の上に吊袈裟をかけた姿で立つ阿弥陀如来立像で、墨書銘によれば、暦応5年(1342年)に仏師法眼定西が二度目の修理を行い、応永23年(1416)にも手が加えられていることがわかります。小さめの目と口、整った鼻筋は上品ではあるものの神経質にみえ、当時盛行していた慶派の様式ではなく、他派の様式下で鎌倉時代に制作されたものであることがわかります。


めくり3


◆「超善寺

590-0946堺市堺区熊野町東5-1-18072-232-2671

樹齢30年以上の桜約30本が咲く名所。

襖絵「三国聖賢図」

http://www.h4.dion.ne.jp/~js.maeda/renunyuteikei.html

昭和60年(1985)年1月8日、日本の友人・梶原重道先生のお勧めで堺市の仏教寺院・超善寺の仏堂の襖絵6枚を描かせていただきました。この中国の伝統的な毛筆水墨彩色画の芸術がこの地に承継され、子々孫々の世代に至るまで日本国の文字書道と共に文明・文化の共有の絆として末長く心に留め置かれるものと信じております。連雲港市と堺市の友好都市提携が、両市の文化や芸術の交流に一層役立てられ中日両国の人民が世代友好できることを祈っております。この「三国聖賢図」を超善寺住職・梶原重道先生と堺市の人民にお贈りします。

熊野学区戦死・戦災死者追悼之碑

http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/osaka_sakai_city004/index.html


めくり4


堺は「公方様(義昭)ならびに信長御台御料所」として宗久に預けられることになりました。宗久は各町に運上銭を賦課し、また堺周辺の村々の支配も担当し、義昭への貢米を指示し、差出(面積や作人・年貢量などを申告させたもの)の提出を命じています。塩・塩合物過料銭、寺庵や端郷に課された棟別銭など、中世の複雑な収取形態を残す貢租の徴収・督促にもあたっています。さらに虎皮・豹皮なども信長に献上しているように、貿易商品にもかかわったとおもわれます。ここで注目すべき点は、宗久の貢租徴収の対象となったのが、町単位であり、村単位であったことです。


めくり5


これは信長が行政・徴租などの対象として、都市では町を、農村では村を基礎単位組織と定めたことを意味しています。町も村も住民の共同体で、中世を通じて発達してきた組織です。信長は京都でも個別町の自治を認め、そのうえに行政・裁判などの支配の網をかぶせる方式をとり、これは堺も同様でありました。信長は複雑な現実に対応しながらも。振興の町や村の自治を公認し、支配の基礎単位とする、政策の基本的な道筋はしっかりとみすえていたのです。今日、村といえば農村を、町といえば都市を思い起こしますが、それは信長以降体制化されたといえ、住民共同体の公認は近世社会の繁栄を支える土台となったのです。