【南海本線「堺駅」】
近畿の駅100選。江戸時代は戎島附洲新田(大和川の堆積土砂)で、明治21年(1888)に市最古の駅として開業した、当時は吾妻橋駅とも呼ばれました。かつては市の代表駅とされていたが、1965年(昭和40年)、阪和線「堺市駅」に市の代表駅の座を譲ったが、現在は南海高野線「堺東駅」が実質的に代表駅となっている。
1945年(昭和20年)、甚大な被害を出した堺大空襲後の旅客営業再開は龍神駅のみで、堺駅はついに貨物駅となるに至った。1955年(昭和30年)に線形の改良工事に伴い、龍神駅からフェニックス通りを挟んで北向かいの位置に、堺駅と龍神駅を統合した新生「堺駅」が誕生し、旅客営業を再開した(現在の堺駅南口。コンフォートホテル堺)。
1983年(昭和58年)7月3日、上り線のみ高架化、現在地(開業当初の位置)に移転。
1985年(昭和60年)5月7日、高架化完成に伴い、再び大小路の西端に移転したが、開業時の位置からはやや南寄りで、ホームは戎島と龍神の間を流れる竪川を跨いでいる。
南口にはショップ南海やコンフォートホテル堺(旧・ホテル南海さかい。旧駅舎跡)がある。竪川の南、龍神と呼ばれる新地(栄橋、竜神橋、住吉橋の3町)に位置し、改札と駅前広場がやや離れているため、高架沿いに商店街が形成されている。南口の駅前広場はフェニックス通りに面し、主に北野田・金岡方面への路線が発着する南海バスの堺駅南口停留所がある。同停留所は、高架化までは「堺駅前」だったが、高架化に伴い改称された。
★「(株)白石彫刻研究所」堺市日置荘原寺町180/072-286-1318
【白石正義】明治34年(1901)~平成2年(1990)
福岡県行橋市にて生まれる。東京高等工芸学校工芸彫刻部卒(現千葉大学工学部意匠科)堺市文化功労者、勲五等瑞宝章受章。堺美術協会では永く副会長として文化活動を推進。東京オリンピックサッカーメダル、全国選抜高校野球大会メタルの原型制作や堺市内では千利休像、呂宋助左衛門像、与謝野晶子歌碑(7基)、龍女神像復元、万国博記念メダルの作者として知られる。
【岡村哲神】1949大阪市生まれ。
2010堺市特別功績者(文化功績)。彫刻家の山本恪二、彫刻家白石正義に師事。堺市内に11基のモニュメントの制作設置。肖像彫刻では六甲山開祖「アーサー・H・グルーム氏之像」をはじめインスタントラーメン発明者「安藤百福之像」等を制作設置。2007.11.~2009.10.産経新聞「アートな大阪―彫刻のある街角―」を執筆。現在、街中で造形展の企画・運営にかかわり、次世代への橋渡しに取り組んでいます。
【与謝野晶子像】作:玉野勢三
与謝野晶子(1878~1942)生誕120年記念、堺陵東ライオンズクラブ結成25周年記念アクティビティとして設置されました。「ふるさとの 潮の遠音の わが胸に ひびくをおぼゆ 初夏の雲」(歌集「舞姫」より)の歌が刻まれています。
【堺事件発生の地】
慶応4年(1868)、大坂入りしたフランス領事を迎えるべくフランス海軍のコルベット艦デュプレクスの水兵が堺に上陸したところ、警備中の土佐藩軍艦府は「通達がない」と上陸を阻止。言葉が通じない混乱の中、フランス兵が藩旗を倒そうとしたため、土佐藩側が発砲。水兵11名を殺傷、溺死させました(堺事件)。フランス公使レオン・ロッシュは猛烈に抗議して関係者20名の切腹、15万ドルの賠償金を要求。国力差から明治政府は全ての要求を受諾。当初、関係者は29名いたので土佐稲荷神社(大阪市西区)で籤を引いて切腹者を選抜。★妙国寺(材木町東4丁)で刑が執行されますが、切腹のあまりの凄惨さに軍艦長デュプティ=トゥアールは11人目で中止を要請、結果として9人が助命されました。自刃した藩士は★宝珠院(宿屋町東3丁)に葬られ、国指定史跡「土佐十一烈士墓」となっています(同院には後にフランス兵の慰霊碑も建立)。森鴎外「堺事件」、大岡昇平「堺港攘夷始末」、司馬遼太郎「新装版・俄-浪華遊侠伝-」などの小説の題材にもなっています。
【参考】アサヒビールの名前の由来「旭橋」
http://www.asahibeer.co.jp/area/07/27/sakai/komakichi_vol03.html
1892(明治25)年5月、大阪麦酒吹田村醸造所から出荷された待望の本格的国産ビールには「アサヒビール」という名前がつけられた。その「アサヒ」にこめられた思いは「輸入を防ぎ国産を興さん」(発売の挨拶状から)という創業の理念から、「日出づる国に生まれたビールへの誇りと、昇る朝日(旭日昇天)のごとき将来性、発展性を願ったもの」と語り継がれてきた。確かに思いはその通りであろうが、駒吉たち創業者の念頭に「アサヒ」の名が浮かんだのには、もうひとつの、もっと素朴な理由があったのではないか?
南海本線堺駅の脇を流れる堅川沿い、堺事件(1868年に起きた土佐藩兵によるフランス兵殺傷事件)の碑の横に旭橋の橋柱が一対残されている。このあたりで「堅川」と交わる旭川にかかる「旭橋」の名残だが、昭和30年に埋め立てられて川はない。幕末に近い天保年間(1830年から40年にかけて)は飢饉と不況の時代であったが、その対策の意味もあって当時の堺奉行は堀川の開削や浚渫工事を熱心に行い、堺港周辺の開発が進んだ。旭川をはさんで新地の西対岸になる旭橋西詰め一帯には善法寺(龍神堂が今でも残っている)や神明神社(前身は旭神社)が人を集め、旭(または朝日)の家という茶屋が繁盛した。明治維新を経て善法寺は廃寺となり、神明神社は栄橋通に移転、旭の家もすでになくなっていたが、鳥井駒吉は港に面し風光明媚な上に、甲斐町の鳥井本店からもほど近いこの地に着目し、明治21年、財界仲間の宅德平や松本重太郎たちと図って、政府高官や財界人との交遊を図る目的でクラブを開設し、旭館と名づけた。駒吉とその仲間が旭館に集い、阪堺鉄道や大阪麦酒の発展について大いに語り合ったことは想像に難くない。その前年に設立発起され、翌22年に駒吉が社長となって正式にスタートする大阪麦酒が、24年には吹田村醸造所でビールの醸造に着手するが、そのビールの名前として、「旭日昇天」の意味もめでたい上に、身近なあちこちに存在するアサヒが浮かんだのはごく自然のことであったろう。ちなみに昭和24年に大日本麦酒が分割されてできた新会社の社名は、カタカナ表記に変わるまで朝日麦酒株式会社であったが、大阪麦酒時代の宣伝や挨拶状では、旭ビールと表記していた。駒吉にとってのアサヒは、やはり堺で馴染んだ旭でなくてはならなかったのだろう。昭和5年の国道敷設工事で閉鎖されたが、旭館には4千坪とも言われる広大な庭があり、行楽の季節には、駒吉が弟妹の家族たちと一緒に、お花見や土筆狩りに興じたことが書き残されている。
【神明神社】
天保3年(1832)に佐々木長門なる人物が稲荷明神等を祀って旭社としましたが、天保12年(1841)に堺奉行・水野若狭守忠一が天照大御神と豊受大御神を勧請。宿院町・布屋源治郎から敷地を寄進されて神明社と改めました。「堺のお伊勢さん」ともいわれます。境内には天保4年銘、天保12年銘の石灯篭や、龍神新地の遊郭の楼主が寄進した玉垣が残っています。また蘇鉄山山岳会の活動拠点で、一等三角点が設置されている日本一低い山・蘇鉄山(標高6.84mメートル。大浜公園内)に登れば「蘇鉄山登山認定証」(有料。1枚20円)を発行してくれます。