【大小路橋】設計:大日本コンサルタント(株)松井幹雄
http://www.engineer-architect.jp/member/list/830/
堺市主催・大小路橋歩道橋デザインコンペ優勝/1996年(1998年竣工)
【西高野街道】
高野山へは京からは八幡市の木津川の御幸橋を起点として、洞ヶ峠、枚方から生駒山地西麓を辿り河内長野へと続く「東高野街道」、大阪の平野を起点とする「中高野街道」、四天王寺を起点とする「下高野街道」、そして大坂★堺から狭山を経て河内長野に続く「西高野街道」が開け、河内長野からは紀見峠を越えて町石道をはじめとする様々なルートが高野山まで通じています。なかでも、西高野街道は江戸時代に入って大坂、堺と高野山を結ぶ物資輸送の幹線道として発達し、堺市★大小路橋(または大小路交差点)から不動坂口女人堂に至るまで13本の里石道標が建立されすべてが現存しています。学文路から不動坂口までは高野山への最短距離でもあり途中の宿場も賑わいをみせ、町石道が信仰の道であるのに対してレクリエーションとしての性格も併せ持った参詣道でもありました。この13本の里石道標に導かれての高野山参詣も歴史の重みと流れを感じさせてくれる道のりです。
・・・その起点にある★土居川公園「裸婦・子ども(母子)像/堺市堺区市之町東六丁3」の作者・由来を調べているのですが、今もってわかりません。さらに、公園内を散策しますと、いろいろ発見しました。
◆「極楽橋」堺市堺区宿屋町東3丁
宿屋町東と神明町東との境界付近の土居川に架けられていた石橋で、土居川の橋の中でも一番細工の美しい石橋でした。この土居川は江戸時代に復興された環濠の一部ですが、昭和40年代以降に阪神高速道路工事で埋め立てられ、橋は撤去されました。橋の大きさは全長11.6メートル、幅2.6メートルあり、堅い花崗岩で造られ、格狭間(こうざま)・欄干(らんかん)を備えた石橋としては珍しく、堺で最も古いものです。この橋の名前は堺の町から★王子ケ飢(おうじがうえ)墓地(現在は南区鉢ヶ峯寺の堺公園墓地に移転・統合)へと向う葬列が渡ったことから、死者の極楽往生を願ってつけられたといわれています。橋に書かれた銘文から嘉永6年(1853年)に和泉屋忠兵衛など19人の町人により、石大工の新兵衛と茂兵衛の両名が造ったことがわかります。現在、元の場所に近い土居川公園に移築復元されています。
◆「堺大絵図」
土居川公園内、川の駅堺、南海本線堺駅前の三箇所に設置されています。
★「獅子石造」作:岩田千虎/堺市堺区甲斐町東6丁
http://www.city.sakai.lg.jp/kurashi/koen/shokai/shokai/doigawa_park/df_filename_61316520130603.html
【岩田千虎(かずとら)】
終始、動物のみの写実彫刻をつくって著名だった千虎は、それにふさわしい職歴の持主である。明治26年10月28日熊本県に生まれる。大正4年大阪府立農学校畜産科卒業、大正10年大阪府立農学校教諭、昭和18年大阪府立獣医畜産専門学校教授、昭和22年大阪府立浪速大学(現★大阪府立大学)獣医科講師、同家畜病院長、同24年同校を退職して、自宅で岩田家畜病院を開業。本業に縁の深い彫刻をはじめたのは農学校教諭時代からで、大阪在住で、元東京美術学校彫刻科助教授であった黒岩淡哉に師事し、昭和8年第20回二科展に出品して初入選し、ついで北村西望にも指導を仰ぎ、昭和9年第15回帝展に石膏像「牡牛」が初入選し、以来帝・文展を通じ10回連続入選した。戦後の日展でも依嘱出品を続け、昭和36年新日展第4回では「闘牛」で菊華賞を受け、翌年第5回日展では審査員をつとめ、38年日展会員となった。以上は主に官展での出品歴であるが、千虎は実に展覧会発表以外の製作歴が豊富である。次に後日の参考のため列挙しておく。<昭和10年>東久邇宮御愛馬及御愛犬を製作、東久邇宮盛厚王成年記念作を製作。<昭和11年>三笠宮に単独拝謁を賜り騎馬像の彫塑作品を献上。<昭和12年>賀陽宮御愛馬奥陸号を製作す。滋賀県大津関寺長安寺の牛仏を寄進す。<昭和13年>賀陽宮御愛馬松駒号を製作献上す。<昭和14年>閑院宮に騎馬像を献上して御陪食を賜る。<昭和16年>李王琅御愛馬秋康号を謹製す。満州国皇帝、蒙古王に作品を献上す。<昭和17年>皇太子殿下に単独拝謁を賜り騎馬像を献上す。<昭和14年以来戦争中の大作>第四師団司令部に馬像寄贈、第四師団司令部に騎馬奇襲の浮彫額面寄贈、輜重兵暁部隊に輜重難路通過の彫塑寄贈、金岡陸軍病院に桃太郎像寄贈、陸軍獣医学校に騎兵斥候の彫塑寄贈、天王寺動物園にリタの像其他の像製作す、北池田村に緊裸農夫の像其の他石田梅厳像等製作す。<戦後の大作>京都府綾部市庁前平和像、南極探検カラフト犬15頭慰霊像★堺大浜公園、(33年に、第一次南極観測隊の際、南極に残留したカラフト犬タロー、ジローを彫って話題をまく)、大阪動物愛護会動物慰霊碑像、福岡県若松第三中学校太郎犬の像寄贈、大阪府動物慰霊像寄贈、婦人補導院鬼子母像寄贈、岡山県吉備津鼻ぐり塚牛豚像、百千鳥耳原伝説像、市民会館噴水に子供の像寄贈、和歌山労災病院庭に伏虎の像寄贈、白鷺サナトリウムに純愛の像寄贈。1966年10月6日★大阪府堺市の自宅で脳卒中のため死去した。享年72才。なお死後、正六位勲五等瑞宝章を贈られた。
◆「花時計」/堺市堺区大町東4丁
仁徳天皇陵を模した前方後円墳型の花時計。
・・・現在は「再整備」予定ということで「時計の針」は撤去されたままになっています。それよりも気になる彫刻が、
◆「内川(うちかわ)」
堺市堺区を流れる堀状の二級河川。土居川合流点より下流は★「竪川(たてかわ)」と呼ばれる。水源はなく大阪湾の水が流れているため、潮の満ち干きで流れる方向が変わる。総延長4.7km流域面積7.96km²の感潮河川。以前は水質の悪化で生物はあまり見受けられなかったが、最近では清掃活動の成果もあって魚が見受けられるようになった。現在では、仁徳天皇陵の周濠の浄化も兼ねて芦ヶ池から井戸水を導入しており、また、出島漁港から海水の導入も行われている。
◆「勇橋」
中央部分に、「フェニックス」が配置されています。
◆「南蛮橋」/堺市堺区戎島町4-53
竪川を眺める南蛮人は、フランシスコ・ザビエル?堺市は、堺港があり、海外との貿易が盛んな地域であった。世界的に有名なカトリック教の宣教師、フランシスコ・ザビエルが訪れた場所としても知られる。そんな時代背景からか、川に面した設置された銅像は、過去の堺市の繁栄を物語る。
・・・堺市は、観光地として様々な工夫がされていますので、その一つひとつの制作者や由来など、説明板がないと調べるのがなかなかたいへんです。