北三国ヶ丘に建つ【江久庵】は、エクセルヒューマン(EH株式会社)が運営する高級カステラ工房兼和菓子販売店舗に、お茶処、茶室、ホール等を備えた施設です。歴史の町、堺から大人の夢を広げるお菓子をご提案します。周囲にしっくりとなじみながらも存在感のある工房では、どこにもないカステラの最高峰を心込めて焼き上げる様子を楽しんだり、また新しい感覚の和菓子とお茶でゆったりとしたひと時をお過ごしいただけます。落ち着きと華麗さを兼ね備えたお茶処「利休」にて、日本庭園と茶室を眺めながら、お友達や、ご家族と共に、ゆったりとした空間をお楽しみいただけます。
【EH株式会社】
590-8585堺市堺区北向陽町2-1/072-223-1111
★EH株式会社は、国宝障壁画「方丈襖絵」の保存事業を実現しました。
http://www.eh.com/activities/daitokuji_project/
★利休大坂屋敷の茶室を堺で復元「朝雲庵」
千利休生誕の地は、国際化が進む自治都市、大阪・堺。その弟子・山上宗二が書き遺した間取り図や当時の茶会記などの資料をもとに京都工芸繊維大学名誉教授中村昌生氏監修のもとで復元。日が昇り輝く「朝」、利休ゆかりの堺「集雲庵」の雲をとり名付けられた。大阪と茶の湯文化を振り返る上で、千利休の存在がある。1522年大阪・堺の商家に生まれた千利休は、茶の湯を政治的に利用して権力と財力を高め誇示しようとした時の権力者、織田信長や豊臣秀吉に重んじられた。大坂城築城後、利休は城下に大坂屋敷を持ち、侘び茶の原点と言われる「深三畳台目」の茶室を設けた。「夏はいかにも涼しきように、冬はいかにもあたたかなるように・・・」自然への回帰、演出の境地、客人を敬い、気配でもてなす。この茶室の特色は、深三畳台目、亭主と客を隔てる台目構え、杉や木、土壁の草庵風つくり、障子からの採光、ほのかな明るさを創り出す、客が潜り入るにじり口など。併設の菓子店「江久庵」では、利休が日本ではじめて茶菓子に用いたという説がある幻のカステラを再現した菓子も販売。
【舟木本「洛中洛外図屏風」】
京都の市中(洛中)と郊外(洛外)の景観を高い視点から見下ろして描いた「洛中洛外図」は、室町時代から描かれはじめ、江戸時代を通して数多く制作されました。そのほとんどが屏風絵で、四季が巡るなか、御所(皇居)をはじめ貴族や武家の御殿、名高い寺社、観光名所をとりあげて、そこに暮らす人々の生活を余すところなく描き出した風俗画です。現存する「洛中洛外図屏風」は100点ほどが知られています。
この屏風は滋賀県の医師・舟木氏がもとの所蔵者であったため、舟木本の名で知られています。左右の屏風を並べると7mほどの画面幅に、南からみた京都の景観を、東から西へ連続的に展開させ、鴨川の流れが左右の画面をつなぎます。右端には、豊臣秀吉が建てた方広寺大仏殿の偉容を大きく描き、左端には徳川家康が建造した二条城を置いて対峙させています。左隻・2扇の三条大橋と高瀬川に架かる小橋が続くあたりには、祇園祭の風流が行きかいます。その先には南蛮人の姿もみえ、店先での商いや、街路をゆく芸能者などが通りをうめています。画面下方、東寺の堂内では僧たちが読経していますが、隅で若い人を抱きしめる僧の姿もみえます。江戸時代の京都の姿を描いた東京国立博物館所蔵の「舟木本・洛中洛外図屛風」(重要文化財)は、「浮世絵の祖」ともよばれる岩佐又兵衛の作で、「二条城」「京都御所」「清水寺」といった今も人気の観光名所や、そこに暮らす公家や武士、僧侶、庶民など2728人の人々が表情豊かに描写されています。
・・・お店の入口正面にレプリカが飾られていました。
◆「方違神社」
590-0021堺市堺区北三国ケ丘町2-2-1/072-232-1216
http://www.hochigai-jinja.or.jp/
社伝によると、人皇10代崇神天皇5年、国内に疫病が流行し多くの民が死亡した。これを憂いた天皇は、同8年12月(紀元前90)勅願により物部大母呂隅足尼を茅渟の石津原(当地)に遣わせ、須佐之男神を祀らせ給うた。すると疫病は途絶え五穀は豊穣となったといい、これが方違神社創祀の起源とされる。創祀より時を経て神功皇后が新羅より凱旋の途次、皇子(後の応神天皇)とは異腹の忍熊王の叛乱に遭うが、三筒男神の御神教により、神武天皇御斎祷の故事に倣い御自ら八十平瓮を作り、須佐之男神を奉祀した神地に於いて方災除けを祈願し皇軍を勝利に導いた。後に応神天皇はこの地に須佐之男神・三筒男神・母后神(神功皇后)を合せ祀り、方違大依羅神社と名づけた。以後、方災除けの神として朝廷武家をはじめ崇敬篤く、関連文献には、仁徳天皇・孝徳天皇・弘法大師空海・平清盛・後鳥羽天皇・徳川家康などの名前が見える。明治元年には東京遷都の折に17日間の祈祷の命を蒙り、明治6年3月郷社に列し、明治40年2月水天宮社(村社)を合祀、同40年10月向井神社(郷社)並びに境内社(愛宕神社・神明社・小祠四社)を合祀して方違天王神社と改称したが、同40年11月方違神社に復号した。また、明治40年12月に八幡社及び武内社を合祀し、近年には大規模な境内整備がなされ現在に至る。
【三國丘】
境内にある三國丘の碑。「堺」の地名は摂津・河内・和泉の三国の境にあることに由来する。三国丘に位置したことから、東西南北すべての方位を消滅させる場所とされ、ここに参拝すれば三国の土を踏む、つまり方違えを行ったことと同じ意味を持っていたのです。このようにして方違神社は方角によって陥る人々の不安を解決してきました。
【境王子】
現在の堺市堺区北田出井町付近にあったと推定されている。この地域は、摂津国、河内国、和泉国の境があった場所で、境王子の名はこれに由来する。また、「堺」(「境」の別表記)という地名も境王子が置かれた平安時代後期から歴史文献に登場するようになり(1081年(永保元年)の『藤原為房卿記』には境王子が「和泉堺之小堂」という名称で登場し、これが「堺」という地名の初出である)、境王子がその由来となったと考えられている。王子社は、後世に堺湯屋町の熊野神社(現在の堺区熊野町東1丁の大道筋沿い)に移り(時期不詳)、その熊野神社も1908年(明治41年)6月に菅原神社(堺区戎之町東2丁1-38)に合祀されたため、正確な位置は不明である。しかし、文献などから、大坂から南下してきた熊野街道は堺の町の東側を通り、★方違神社(堺区北三国ヶ丘町2丁2-1)付近で長尾街道(大津道)と交差し、反正天皇陵の西側を通っていたことはわかっており、境王子は方違神社の北方付近にあったと考えられている。実際、『文久三年改正堺大絵図』には「小栗道」「王子ヶ飢」の記載があり、境王子がかつてあったことがうかがえる。これらのことから、現在は★王子ヶ飢公園(堺区北田出井町3丁4-6)に「境王子跡」の石碑が建っている。これは熊野本宮大社の鎮座する和歌山県本宮町(現田辺市)から贈られたものである。
【田出井山古墳】
http://www.mozu-furuichi.jp/jp/column_report/mozu/vol003.html
通称三国ヶ丘台地と呼ばれる台地の上にあり、百舌鳥古墳群の中では最も北にある前方後円墳である。宮内庁は第18代・反正天皇★百舌鳥耳原北陵に治定している。
・・・「堺」は本当に見所が多いですね。