茶の湯(6) | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

松尾流

●「家元茶道稽古場」461-0001名古屋市東区泉1-17-38052-951-1236

http://www.matsuoryu.com/


まつお1


◆名古屋大学茶道部(松尾流)

http://www2.jimu.nagoya-u.ac.jp/sadomatuoryu/index.html

歴史は文亀2年(1502年)に松尾流の始祖となる辻玄哉が誕生したことに始まります。辻玄哉は京都新在家に住む禁裏御用の呉服商でしたが、武野紹鴎の高弟として茶の湯を学び、紹鴎から台子茶湯の秘事相伝を授けられました。また、『茶話指月集』には「そのころ辻玄哉というもの、古来の台子をしる、宗易、玄哉の所へゆきて古流をならひ、御殿においてつかうまつる」とあり、千利休が玄哉から古流の台子を学んだと伝えられています。玄哉は生涯、茶の湯者にはならず、数寄者として茶の湯を楽しみました。玄哉の子「辻五助」が「松尾」と名乗るようになりました。三代目は五助の子「松尾宗二」千宋旦から「楽只軒(らくしけん)」の書を譲り受けこれ以降松尾家は「楽只軒」と称しています。そのあと、四代「松尾宗政」、五代「松尾宗俊」と続きやはり茶の湯者とはならず、呉服屋さんとして生計を立てています。これ以降、だんだん「松尾流」として成立して行きます。松尾家五代宋俊の養子にあたる、「楽只斎宗二」は町田秋波に茶の湯を学び、後に覚々斎原叟(表千家の六代目の家元)のもとで奥義を極め、「松尾流」として一家をなしました。楽只斎宗二は松尾流の流祖になるわけです。そのころ、名古屋の民衆は「是非、利休の茶を学びたい!」ということで覚々斎原叟の元に「代理のお茶の先生を是非名古屋へ」とお願いし覚々斎原叟の代理として町田秋波、名古屋へ千家の茶道を広めに派遣されます。しかし、町田は三年のうちに亡くなってしまいましたさらに名古屋の人々にお願いされ楽只斎宗二を派遣します。宗二は京都、名古屋をたびたび往復し茶道普及に尽力をします。以後、後々の家元も、京都、名古屋を往復し、そのうちに美濃、伊勢などの人々も門弟となり、活動の本拠地が名古屋に移行していきます。そして、七代目「好古斎宗五」が家元を務めていたとき、明治維新の前後には茶道が衰退しさらに鳥羽伏見の戦いで京都の家を焼かれ本拠のある京都を離れ、名古屋まで疎開せざるをえなくなり以来、松尾流は京都には戻らず、代々名古屋に住むことになりました。完全に名古屋永住を決めたのが明治中頃、九代目「半古斎(はんこさい)宗見」と言われており、以降名古屋を中心に活動しています。現在の家元は十二代目「妙玄斎(みょうげんさい)宗典」です。


まつお2


◆【楽只美術館(財団法人松蔭会)】◆

461-0001名古屋市東区泉1-17-28052-961-3578

松尾流の美術館として昭和62年に開館した。松尾流歴代の作品や好み道具を主として収蔵している。建物自体は大きいが、展示室は入口脇の一室のみで。また会館としての施設利用はあるようですが、美術館の開館日時は極めて限られているので、見学希望の場合は電話確認が必要です


まつお3


・・・さて、「待庵」の写しをもう少し紹介しましょう。

大徳寺塔頭瑞峯院

603-8231京都市北区紫野大徳寺町81075-491-1454


まつお4


キリシタン大名で知られる大友宗麟公の菩提寺で、方丈・唐門・表門は天文年(1535)に建てられた当時のもので重要文化財。重森三玲氏作庭の庭や昭和初期に建てられた茶席を公開。さらに、平成元年(1989)に千利休が建てた待庵の写し(平成待庵)を建設、現存する待庵のほか、文献や図面を基に忠実に再現されました。床の間の幅が隅炉の外隅のところまであります。妙喜庵の落掛は切った後があり、利休が待庵を建てた場所から現在の妙喜庵へ移築された際に床の間の幅を決める柱が短くされてしまったというそこで、平成待庵は“最初に建てられた状態の待庵”を再現したそうです。また。妙喜庵にはない内露地も再現されています。予約制で公開しています

他に、「餘慶庵表千家8代目啐啄斎の好みの席を写したもの。安勝軒表千家第12代惺斎の好み大徳寺山内唯一の逆勝手席になっている。があります。

【参考「庭園」】

方丈を中心として南・北・西の三庭からなっている。いずれも重森三玲の手によるもので、昭和36年(1961年)、開祖である徹岫宗九の400年遠忌に作庭された。

独坐庭(どくざてい)方丈の正面に位置する蓬莱山式庭園で、大刈込と巨石で表した蓬萊山からのびる半島と小島に打ち寄せる荒波を砂紋で描いている。百丈禅師の言葉である「独坐大雄峰」という禅語からの命名。

閑眠庭(かんみんてい)キリシタン大名・大友宗麟の思いを汲んだ枯山水の庭で、東側にあるキリシタン灯篭を背にして見ると、7個の石組みが十字架を形作っている。「閑眠高臥して青山に対す」という禅語からの命名。

茶庭方丈と餘慶庵の間にある露地で、一木一草を用いず、青石を一面に敷きつめ、中央近くに立手水鉢を設けた斬新な茶庭であった。近年改築されて、松や苔の植栽に飛び石という典型的な茶庭になっている。


まつお5


・・・一番下の妙喜庵「待庵」の画像と比較すると、違いが一目瞭然です。「写し」と言っても、様々な工夫や考えがあるわけです。