【松山の町屋ガイド】
http://aknv.city.uda.nara.jp/matuyama/machiya.html
■林家住宅/文政11年の棟札が残る大型の町家。屋号は「拾生屋」であるが、「多葉粉屋」と言っていた時期が古く、タバコを扱っていたらしい。間口が9間と大きく、3列9室を基本とする間取りで、新座敷が鍵の手に突き出している。3列目に入るための座敷玄関があり、当初は2列6室であった町家に、3列目と新座敷を増築したらしい。
■黒川家住宅/切妻・つし2階・桟瓦葺・平入で、間口10間半、2列5室の間取りで前土間がある。愛宕祈祷札に寛政3年とあり、この時期よりもう少し古い建物であると思われる。屋号は「山ノ坊屋」といい、一時期薬も売っていたが、代々葛を商っている。作家の谷崎潤一郎も愛した店。南3分の1を貸家とした子持ち長屋であったとされる。
■山邊家住宅/切妻・つし2階・桟瓦葺・平入で、規模は間口7間、2列6室の居室構成でシモミセを持つ。江戸時代中期の建築である当家は、この地区の中でも最も古い重要な町家。かつては宇陀紙の総元締めを家業としており、「山邉長助」を世襲、藩札の原版や宿札などが残っている。格子、スリアゲ戸の痕跡、5つの虫籠窓などが見られる。
■あゆみ家住宅「茶房あゆみ」(定休日:木)
宇陀市大宇陀区上新1899-1/090-5895-6470
築180年の建物。10食限定の日替わりのランチ。地元の特産品コーナーもあります。
◆「神楽岡神社」
633-2161奈良県宇陀市大宇陀上新1903/0745-95-2898
江戸中期までは「大将軍神社」と呼ばれていたそうです。祭神は天照皇太神。「壬申の乱」のとき、吉野を出立した「大海人皇子(後の天武天皇)」は、その日のうちに宇陀の吾城(安騎野)に到着し、さらにこの神楽岡神社付近に至り、加勢を得たという伝承が有ります。
境内には、柿本人麻呂が草壁皇子の皇子・軽皇子と阿騎野を訪れた際にうたった万葉歌の碑が立つ。
http://www.city.uda.nara.jp/udakikimanyou/manyoukahi/kahi13.html
ま草刈る荒野にはあれど黄葉の 過ぎにし君が形見とぞ来し(草を刈るしかない荒野だが、黄葉のように他界へ過ぎゆかれた君の形見と思ってこの地に来た)
■都司家住宅
主屋には明治4年の愛宕祈祷札があり、明治元年頃の建築と伝わる。屋号を「更紗屋」といい、辻本姓を名乗っていたが、都司となった。2列6室タイプを基本とした間取りで、土間側に広縁を持つ。1列目表に座敷玄関があり、慶恩寺の普山式の時には都司家が僧侶の支度控えに利用され、その時にこの玄関から僧侶が出入りした。
■山本家/「糀甚ーこうじん」“糀甚桜”と呼ばれる桜の木が、橋のたもとにあるらしい。
【糀と麹】
こうじは、米、麦、大豆などの穀類でつくりますが、それらのこうじ全般を表す漢字として、現在では主に『麹』という字が使われています。これは中国から伝わった漢字です。もうひとつの『糀』という字は、明治時代にできた国字(和製漢字)で、米糀のみを表します。米糀は、蒸し米に麹菌をつけて発酵させたものです。ふわふわした白い菌糸が蒸し米の表面を花のように覆っている様子を表現したのが、『糀』という文字なのです。
◆浄土真宗本願寺派「万法寺」/宇陀市大宇陀小出口2284
http://www.city.uda.nara.jp/bunkazai/kyouiku/bunka/bunkazai/kenshitei.html
旧領主伊藤掃部頭の弟伊藤五郎太夫が真宗に帰依し、本願寺証如宗主の弟子となり、薙染して祐尊といった。元亀2年、祐尊は法隆寺に参籠し、聖徳太子の霊告によって本寺を建てたと縁起がある。元禄年間、織田家丹波柏原へ転封後、寺禄を失う。永和3(1377)年の創建となっているが縁起によると真宗に帰依し、本願寺証如宗主の弟子となった旧領主伊藤掃部頭の弟子伊藤五郎太夫が元亀2(1571)年法隆寺で聖徳太子の霊告により本寺を建てたと伝えられる。本尊は阿弥陀如来で、堂内には聖徳太子立像も安置され、本堂は県指定文化財。
■旧福田医院/大正14年頃に建立された洋館。福田家は3代に渡って内科・小児科の開業医をしており、この建物を医院として昭和2年から56年頃まで利用していた。現在は、洋館の1階部分は医院に利用し、洋館2階と接続する居住部分は和風のつくりになっている。診察室は大壁づくりで、天井は折上げ天井。敷地には蔵や離れなどもある。
◆「松山西口関門」
福島掃部孝治が城下町への出入口として今から400年前に建築したもので、昭和6年に国の史跡に指定された。宇陀川から春日社にぬける道に位置し、付近には枡形がある。壁以外はすべて黒く塗られているため、町の人には「黒門」と呼ばれ親しまれている。近世の城において大名屋敷の主要な入口に設けてある「高麗門」形式で、なかでも初期の形をしている門として重要な建物です。
・・・時代劇のワンシーンを観ている、そんな錯覚に陥りました。