茶の湯(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・堺に来たら「かん袋」、暑い季節に「氷くるみ餅」は最高です。

◆「かん袋」

590-0964堺市堺区新在家町東1-2-1072-233-1218

http://www.kanbukuro.co.jp/

平成27年6月1日、駐車場リニューアル完了筋からの入場となります。(定休日:火水)かん袋は、鎌倉時代末期、元徳元年(1329)に和泉屋徳兵衛が和泉屋という商号で御餅司の店を開いたのが始まりです。

安土桃山時代に、豊臣秀吉が大阪城を築城し、その際に堺の商人へ多額の寄付を要求しました。文禄二年(1593年)の春中頃、桃山御殿が完成したのを機会に、秀吉は寄付金の礼として堺の商人納屋衆を招きました。その時、天守閣は瓦を葺く工事中でした。暑い日盛りの下で、蟻がえさを運ぶように職人が一枚一枚瓦を運び上げていました。この様子を見た和泉屋徳左衛門は、容易に片付かないと思い、毎日奉仕に出ました。餅作りで鍛えた腕力を使い、瓦を取っては次から次へと屋根の上に放り上げました。瓦は春風に煽られて、紙袋がひらひらと舞い散るように屋根に上がりました。そこに居合わせた人々は、度肝を抜かれました。これを見た秀吉が、「かん袋が散る様に似ている」と、その腕の強さを称えました。秀吉は、「以後かん袋と名づけよ」と命じ、それより「かん袋」が、和泉屋の商号になりました。

室町時代の中頃(1420年頃)には、堺の町は明との勘合貿易の貿易港として栄えていました。明国より入荷した農作物を利用して、五代目の和泉屋忠兵衛は塩味で挽き合わし、茶菓子を作り出しました。お餅をくるんで食べるところから「くるみ餅」と名づけました。その後、ルソンから砂糖が輸入され、甘味が加えられ現在のくるみ餅となりました。

明治時代になり、冷凍技術が輸入され、氷が簡単に作られるようになると、カキ氷をかけて食べられるようになりました。それが、「氷くるみ餅」です。当時から、夏になりますと、涼感を求めて大勢のお客様が、お店に行列を作るようになりました。


りし1


・・・そして、本日の目的地「利晶の杜」へ。

◆【さかい利晶の杜】◆

590-0958堺市堺区宿院町西2-1-1/072-260-4386

http://www.sakai-rishonomori.com/

平成27年3月20日(金)正午(午前12時)オープン堺で生まれた千利休、与謝野晶子のもてなし、創作の原点を紹介し、立礼呈茶や茶室お点前体験などの茶の湯体験もできる、内容盛りだくさんの施設となっています


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http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/kanko/kyoten.html

堺市立歴史文化にぎわいプラザは、千利休茶の湯館、茶の湯体験施設、与謝野晶子記念館、観光案内展示室が一体となって、堺の歴史文化の魅力を発信し、観光誘客を図る施設です。また、本格的な茶室や茶庭を整備するとともに、千利休が造った茶室のうち唯一現存する茶室である国宝「待庵」の創建当初の姿を復元することで、千利休によって大成された「茶の湯」に触れることができる施設とします。


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企画展「関西茶の湯ミュージアムパネル展」

平成27年6月19日(金)~8月30日(日)

茶の湯は千利休の時代に大成したといわれています。利休と同時代を生きた織田信長、豊臣秀吉といった天下人は茶の湯を愛好し、多くの茶道具を蒐集することにも情熱を注いでいました。その後、様々な人の手に渡った名物(茶道具の優品)は美術館、博物館などに所蔵されることで、広く公開されるようになりました。今は誰でも気軽に名物に出会うことのできる時代といえるでしょう。本展では、「さかい利晶の杜」の開館を記念し、関西にある茶の湯に関連するミュージアム各館をパネルでご紹介します。本展によって、関西の茶の湯文化を知っていただく一助になれば幸いです。


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・・・紹介されていた「茶の湯」ミュージアムの半分以上、すでに訪問していましたのでかえって驚きでもありました。


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◆「千利休屋敷跡」/堺市堺区宿院町西1-17-1

千利休は大永2年(1522)、堺今市町(現在の宿院西1丁)の豪商魚屋(ととや)の長男・与四郎として生まれました。17歳の時北向道陳に茶湯を学び、のちに武野紹鷗に師事しわび茶を大成させました。茶の湯をもって信長に接近し、その死後は秀吉の茶頭として仕えながら、北野の大茶会を取り仕切るなど天下一の茶匠として権勢を振るいましたが、小田原の役後秀吉の怒りにふれ自刃しました。現在の茶道千家の始祖であり「茶聖」と称せられています。屋敷跡には椿の井戸が残っていますが、椿の炭を底に沈めていたといいます。井戸の屋根は、京都・大徳寺山門の古い部材を用いて建てられたとされる。江戸後期には、酒造業を営んでいた加賀田太郎兵衛が利休をしのんで建てた「懐旧庵」があったという。

【参考】<千利休屋敷跡>茶道聖地にもてなしの杜

幹線道路から外れた一角に、その屋敷跡はある。堺市の阪堺電軌・宿院停留場近くに広がる敷地。豊臣秀吉に茶頭として仕え、佗茶を大成した千利休が、かつて暮らしていたとされる。「茶道の流派を超えた、聖地のようなところですね」と京都市上京区の茶道資料館の橘倫子学芸員は話す。屋敷での詳しい暮らしぶりは伝わっていないが、柵で囲まれたスペースには、茶の湯に使ったという「椿の井」と呼ばれる井戸があり、今も水が湧き出る。ただ、住宅街に溶け込むひっそりとしたたたずまいに、通り過ぎる人も多い。NPO法人・堺観光ボランティア協会の川上浩理事長(68)は「案内をして『利休がいたのと同じ空間に今、立たれているんですよ』と話すと、驚いて感動されることもあります」と言うが、「ガイドが一緒じゃないと中には入れませんし、一人でぶらりと来ても楽しめないですよね」と笑う。そんな場所が今、変わろうとしている。屋敷跡の西側に2015年春、市の文化観光施設がオープンするからだ。利休の茶の湯と、与謝野晶子をテーマにした「さかい利晶の杜」。3階建てで、京都にある国宝の茶室「待庵」も再現する。待庵は2013年公開された映画「利休にたずねよ」にも登場。亭主と客が対峙する様子が描かれた。そんな、「緊張感の中で生まれるコミュニケーション」を感じてもらおうという仕掛けだ。屋敷跡も、所有する茶道裏千家淡交会総本部が一般公開する計画があるという。堺の歴史に詳しい太成学院大非常勤講師の中井正弘さん(73)は「和・敬・清・寂を重んじた利休の生き方や、心の持ちようは今の人たちにも響くはず」と期待する。利休の伝えた「もてなしの心」を身に付けてもらおうと、市教委は仁徳天皇陵そばの茶室「伸庵」などで小中学生の茶の湯体験を行ってきた。「歴史をつくった人がここにいたと思うと、すごいですね」と5月に体験した大仙小6年の佐藤有香さん(12)。春になれば、茶の湯を通して、さらに地元に誇りを感じる人が増えるかもしれない。2014年10月読売新聞より)