紡績・赤煉瓦建築(27) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・JR大阪環状線の窓から見える「赤煉瓦建築」、気になって仕方がなかったので、やっぱり行ってきました。


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◆「中西金属工業株式会社

530-8566大阪市北区天満橋3-3-506-6351-4832

http://www.nkc-history.com/index.html

事業内容/ベアリング・リテーナー・コンベア及び自動制御装置・サッシ用戸車・住宅関連製品・ゴムシール・精密金型・無人搬送車(AGV)・各種金属プレス加工品・各種樹脂射出成形品・冷間圧延鋼板等の製造販売

http://www.nkc-history.com/chapter1/akarenga.html


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大阪・天満の本社にある赤レンガ館。建築年は1886(明治19)年、造幣局本館や中之島公会堂と並ぶ歴史的建造物である。階建ての大きな赤レンガ建築で、つの切妻屋根と階正面のつのアーチ窓が印象的。JR大阪環状線の北側にあり、電車からよく見えるランドマーク的存在だ。「むかし通学の時、古めかしいレンガづくりの建物が風景としてすり込まれていた。何をつくっている会社か知らなかったけれど」ともらす幹部もいる。明治生まれのこの赤レンガ館、いまも現役である。階は軸受事業部の技術開発部と技術管理部の75人がパソコンに向かい合っている。階は特機事業部の本社部門で35人が働いている。建物内部は柱の数が多く、その上部が字型に広がり、階の床を支えている。年前、大阪歴史博物館から歴史的建造物指定の希望の有無を問われたが、この指定を受けると内外改装など一切の工事を制限されることから辞退した。赤レンガ館はもともと天満紡績の工場として完成、合併により1900(明治33)年に大阪合同紡績天満工場となった。1931(昭和6)年、大阪合同紡績が吸収された東洋紡績の工場となり、1938(昭和13)年に中西金属工業に移った。赤レンガ館と並んで本社棟も明治期の建物。階が石造風、階はタイル張り、屋根が寄棟造桟瓦葺という和風づくり。天井が高く、階段は急勾配、手すりまわりの古風な意匠などに、明治の香りが漂う。本社・工場の敷地内には、紡績工場の面影を残す、のこぎり型の屋根もある。日本で初めて女工らがストライキを行った工場といわれており、資本主義勃興期の生き証人でもある。赤レンガ館も本社棟も内部はきれいに改装され、清潔な装いを保っていて年齢を感じさせない。そんな明治期の建物が並び立つ姿は、90年になんなんとするわが社の歴史と工業都市・大阪の歩みを肌で感じさせてくれる存在である。


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天満紡績

1887年月、第三十四国立銀行頭取の岡橋治助ら大阪の商工業者が中心となって設立され、資本金は60万円で本社工場を大阪府西成郡川崎村(現在の大阪市北区)に置いた。翌1888年、約7000錘の工場が完成して操業を開始し、続いて約27000錘規模の第工場の建設も開始した。第工場は1889年に完成し、資本金も120万円にまで増やした。これによって創業から年余りで当時の日本国内屈指の紡績会社となった。ところが、その矢先の1889年月、天満紡績争議が発生し、その年後の1894年月にも大規模な争議が発生した。そのためか、増資と減資を繰り返すなど経営は不安定となり、役員を総交替させるなどの措置を取ったものの、状況は回復できず、1900年月、同じ西成郡を拠点とする大阪合同紡績と合併した。

1889年月30日、天満紡績で働く女工300名(一説には250名)が昼休みに賃金引き上げを求める相談を行って、昼休み終了後も作業に戻らなかった。様子を見に来た役員に対して、女工たちは賃金引き上げの要望を突き付け、役員は社長との相談をして回答することを約束、女工たちは一旦は仕事に戻った。だが、会社側が回答を行わなかったため、10月日に女工たちは再度回答を迫った。これに対して会社側が首謀者とされた女工の解雇を通告したため、女工たちは憤慨して更に積立金の返還を求めるなどの要求を行った。これに男性工員も同調する動きを見せたために、10月日に会社側が女工たちの要求を受け入れることで解決した。


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1894年月27日、夜勤を終えた工員たちが技師・工務係ら上司名の解雇を求めて午前時ころより食堂を占拠し、出勤してきた昼勤の工員たちに同盟罷業を呼びかけ、これに従わない一部の工員に対して夜勤の工員が殴打した。そこへ会社側の要請を受けた曾根崎警察署の警察官が工場に入り作業を再開させる一方、会社側は技師たちに解雇相当の理由はないとして工員たちの要求を退けた。これに対し、工員たちの中には納得をせず退社する者も出た。なお、昼勤工員の殴打に関して、工員名が暴行によって告発され、名が有罪判決を受けてそれぞれ重禁錮か月・罰金円、名はその後の控訴によって重禁錮か月・罰金円判決が下された。

【参考】大阪府立大学・図書館「長尾文庫ビラ・リーフレット(C0251~C0269)

http://www.osakafu-u.ac.jp/library/collection/nagao/Flyer_19.html


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・・・「天満市場」周辺も赤レンガ探して歩きました。


【天満市場(ぷららてんま)】

530-0033大阪市北区池田町3-1/06-6351-2738

http://www.tenmaichiba.com/index.html

大阪市北区天満駅・扇町駅のすぐ近く活気あふれるなにわの台所日本一長い商店街の天神橋筋商店街とあわせて歴史ある天満市場。古くは青物市場と呼ばれ、江戸時代には「天下の台所」と呼ばれた大阪を象徴する市場でした。今現在も歴史ある商店が軒を並べて、歴史と伝統を受け継ぎ多くの人に愛され親しまれる市場となっております。

大阪の豪商「淀屋」の代目个庵(こあん)が、自分の屋敷に開設した青物市場は、現在の北区天満丁目、天神橋丁目、南天満公園付近一帯に広がり、江戸時代「天下の台所」として聞こえた大阪を象徴する市場でした。これが現在の天満市場の先祖です。その後何度か場所を替えながら、承応年(1653)、京橋の北詰・片原町から天満橋を渡ったところ(現在の南天満公園)に落ち着いた市場が、天満市場の前身です。大川に面して水運の便がよかったことから、市場は急速に発展、毎日数万人の商人が集まり品物を買い求めました。野菜を売った農家の人達は天満宮へ参拝したり、芝居を観たり歓楽街で遊んだりと界隈はとても賑わいを見せていましたが、この市は昭和年(1931)に福島区の大阪中央市場へ統合されました。その市場も昭和20年の大阪大空襲ですべて焼失。現在の「天満卸売市場」は昭和24年に池田町(元東洋紡績天満工場跡地)に再建されたものです。当初は卸売りが中心で、小売を始めるようになったのは、十数年前のこと。今では誰でも卸値で買い物ができるようになりました。