紡績・赤煉瓦建築(26) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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行基年譜では、当時、久米田池北西に位置する八木郷一帯は、水量の少ない天の川に頼っており、度々の干ばつに苦しむ農民を見て溜池の築造を決意。地元農民や知識結を集めて神亀2年(725)に着工し、天平10年(738)に14年の長い歳月を経て完成させた。そして完成後にも、更に岡山町の物部田池や当時の小さな数個の池を集めて規模を拡大させていき現在の大きな久米田池にしたと伝えている。完成から1300年の時を経た現在の久米田池は、周囲2.2Km、面積46.5ヘクタールある大阪府内で最大のため池として今なお、潅漑用水に使用され続けている。また潅漑用だけでなく、カワチブナ等の養魚にも利用されいる。このため毎年10月から11月に水田に水を供給する必要が無くなると養魚を捕獲しやすくするために徐々に水が抜かれ12月には完全に無くなる。そして翌年の2月初旬から牛滝川から水を入れはじめ4月上旬には満水とされる。こうした作業が毎年繰り返されている。


ぎょう1


行基は菩薩道を実践することにひたすら生きた僧である。行基にとって菩薩道を実践することとは、困窮する人々を救済することであった。そのために行基は、数々の布施屋(救護所)や溜池、橋の造築を手がけているが、それらを造築したところには必ずその施設の維持管理と布教の場を目的とする「院」を併設している。この院が後に発展し、「続日本紀」に記載されている行基建立四十九寺と呼ばれる寺院等となるのだが、久米田寺もその一つで、久米田池の維持管理と布教の場を目的として併設された「隆池院」が、久米田寺の草創である。当寺院の塔頭は現在、左の華厳院、下の多門院、明王院の三院のみである。しかし、当寺院の最盛期と言われる鎌倉時代には、東大寺、高山寺と並ぶ華厳教学の中心として栄え、境内地は東西5丁、南北8丁、子院は20余ケ寺もあったという。奈良官寺の整然とした伽藍配置に比べると雑然とした感するが、この寺院が江戸期以降、もっぱら民間の信徒によって支えられてきたことを考えると、むしろこれだけの境内をよく維持してきたものだと感心させられる。昭和32年10月、日清・日露戦争から太平洋戦争に至る岸和田市出身戦没者の霊を祀るために法隆寺夢殿が参考にして靖霊殿」も建立されている


ぎょう2


◆【久米田池交流資料館】◆

596-0813岸和田市池尻町671-11072-444-2272

http://www.city.kishiwada.osaka.jp/soshiki/42/kumedaike-kouryuusiryoukan.html



ぎょう3


久米田池にまつわる歴史的資料を展示しています。また、地域における、都市住民との交流の場として、各種団体の研修・会議等にもご利用いただけます。久米田池交流資料館は、岸和田市都市農村交流推進協議会が運営しています。


ぎょう4


・・・清々しい気分で周囲を散策してみると、「古墳公園」がありました。

◆「久米田公園」/岸和田市池尻町

公園内には貝吹山古墳、風吹山古墳、無名塚古墳が現存し、周辺にもいくつかの古墳が存在します。平成(1994)年から風吹山古墳の発掘調査が行われ、ほぼ未盗掘の埋葬施設から画紋帯神獣鏡、鉄剣、鉄刀、数千点におよぶ玉類などが出土しました。

久米田古墳群

https://www.city.kishiwada.osaka.jp/soshiki/36/kumeda-kofungun.html

池尻町付近の標高35~40mの久米田丘陵にあります。過去、10数基の古墳があったと考えられていますが、現在は8基の古墳が確認されています。そのうち、貝吹山古墳、風吹山古墳、無名塚古墳の3基は現在、一部整備され久米田公園の中に存在します。古墳時代、岸和田市のある和泉地域で力を持っていた首長のお墓(古墳)は、岸和田市摩湯町にある摩湯山古墳から始まります。その後、岸和田市近隣で貝吹山古墳と同等の古墳が造られていきます。しかし、時代が下るにつれて、中央政権と和泉地域の首長との関係の変化などから岸和田市内では大規模な古墳は造られなくなりました。


ぎょう5


◆「浄行寺」/596-0822岸和田市額原町166

額原町古くからある町内で、産業はかては泉大津に近く、毛布の産地としても、昭和の発展をになってきました。町並みも古い旧家が多く、現在でも半農の方も多くおられる。町内には、ため池も多く灌漑用として現在でも使用しています。「浄行寺」は、白河上皇にまつわる場所に位置し、浄土宗の寺として、信仰を集めています。額原町も、ご多分に漏れず、一年間をだんじり祭に費やしている感じがします、

◆「積川神社遥拝鳥居」/596-0821岸和田市小松里町字北額(額町)

白河法皇の行列が熊野道を通りかかった時のことです。旅の安全祈願のため、遠く積川神社(岸和田市積川町)を遥拝するために建てられている鳥居の扁額の文字が余りにもみすぼらしいので、取り外そうとしていると、にわかに雷鳴が轟き、川は吠え、天も地も激しく揺れ動きました。「これはもったいないことをした。あらためて私の手で書き直し、奉献することにしよう」と、法皇が近くの小屋に雨を避け、墨痕鮮やかに、「正一位積川大明神」と書き、額を鳥居に掲げるとたちまち暴風雨はおさまりました。それ以来この地を『額』(がく)と呼ぶようになったと伝えられています。なお、近くの浄行寺には、碁石山といって白河法皇が熊野詣の際に碁を囲んだと云われる碁盤状の石があります。当然、このお寺の字は『額原町字碁石山』でした。


・・・「岸和田」は歴史の宝庫ですね。勉強になりました。