紡績・赤煉瓦建築(22) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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■「岸和田市立元睦会館」/岸和田市岸城町4-23

寺田元吉さんの銅像があります。「岸和田市立産業高等学校」にも、創設者である思成会」(寺田元吉、元之助)の像があります。

北寺田家寺田元吉

元吉は、南寺田家の関連企業で取締役を務めていたが、明治末期から準家業としての五十一銀行を足がかりに次々と準家業会社を起こして、独自グループを形成していった。明治45年の関西製綱、大正4年の東洋麻糸紡織設立のための共同出資に大株主として参加し、しかも長男元之助を社長に就任させた。元吉は両社の経営の中心にあり、これらは北寺田家の準家業会社であった。また大正4年共同出資企業泉州織物の経営をてこ入れし、元吉が社長に就任した。南寺田家が寺田合名を設立した大正9年12月には、これに対応するかのように佐野紡績(明治29年当時に元吉が個人企業の製綿製米所として創業)を株式会社(払込資本金375万円)に改組、家業会社とした。三家の中では唯一酒造業を維持し、三男正蔵が元朝の醸造を継いだ。

【堺寺田家・寺田利吉】

堺寺田家では、二代利吉の時代に独自のグループづくりに動き出した。明治40年に寺田銀行(払込資本金12万5000円)を岸和田に設立し、大正4年寺田紡績工廠(払込資本金12万5000円)を泉南郡麻生郷村に設立したのがそれである。二代利吉は、岸和田紡支配人であったが、大正2年に退職して、独自の紡績会社を設立した。その後昭和18年12月に寺田紡績工廠の太番手紡機をもとに寺田工業を設立。これは麻綿混紡糸メーカー寺田紡績として健在だが、平成24年にはユニチカの完全子会社となっており、現在は堺寺田家との関係はほとんどない。


ごふう1


■「別寅かまぼこ城内寮」/岸和田市岸城町4-17

非公開ですが、連続テレビ小説「カーネーション」におけるロケ収録地として選ばれ、ドラマのなかで"神戸のお屋敷"として大変印象的に表現されました。広大なお庭。そもそも勘定奉行所跡。旅館「萬翠園」の時代には★小篠綾子さんもお気に入りで、三味線会、浴衣会など活用されそうです。

別寅かまぼこ

本社岸和田工場岸和田市大北町7番22号貝塚工場貝塚市二色南町1番1

明治30年 桑山小助、貝塚市にて桑山商店を魚屋として創業

明治41年 桑山梅吉、小助より事業を引き継ぎ、かまぼこ、ちくわ、天ぷらの製造販売を専業とする

昭和4年 商標を、別寅かまぼこに統一

昭和32年 桑山幸十郎、株式会社に改め別寅かまぼこ株式会社へ

昭和45年 本社岸和田工場設立

平成5年 天ぷら工場、貝塚工場二色へ移転

平成8年 桑山幸十郎より桑山幸助へ事業継承し、三代目代表取締役社長就任

平成22年 桑山幸助より桑山宗三へ事業継承し、四代目代表取締役就任。現在に至る


ごふう2


◆「岸城神社」

596-0073岸和田市岸城町11-300724-22-0686

http://www.kishikijinjya.com/

南北朝時代、京都の八坂神社を勧請し、牛頭天王社と呼んで岸和田村の鎮守にしました。のちに、小出秀政が岸和田城を創建した時、八幡大神を合祀し、代々の城主・住民に崇拝され、明治維新になって社名を岸城神社と改めました。また、昭和年に十日戎大祭を行って以来参拝者も増加し、現在、月の敬老の日の前日、岸和田祭の宮入りの際には大変賑わい、こなから坂をかけ上るだんじりの姿は圧巻です。平成23年に御鎮座650年を迎えるに当たり、平成20年月に御社殿を改築した。城が千亀利城と呼ばれていたのにちなんで、縁結びの神として参詣者が多い。


ごふう3


・・・「岸和田高校」には、古い煉瓦門や土塀などが残されています。

◆「岸和田城」

http://www.city.kishiwada.osaka.jp/soshiki/36/kishiwadajyo.html

伝承では、建武新政期に楠木正成の一族、和田高家が築いたといわれています。天正13(1585)年、羽柴秀吉は紀州根来寺討滅後、伯父小出秀政を城主とし、秀政によって城郭整備され、天守閣もこの時に築かれました。小出秀政・吉政・吉英、松平(松井)康重・康映をへて寛永17(1640)年、岡部宣勝が入城(6万石、のち5万3千石)。以後、明治維新まで岡部氏13代が岸和田藩を統治しました。天守閣は文政10(1827)年に落雷で焼失、維新期には櫓・門など城郭施設を自ら破壊したため、近世以前の構造物は堀と石垣以外には残存していません。現天守閣は、昭和29年に建造された3層3階の模擬天守です。本来は5 層天守であったことが絵図などで確認されています。城跡は昭和18年に大阪府指定史跡となりました。

岸和田城庭園八陣の庭

昭和28年に作庭家の重森三玲氏によって、作庭されました。その芸術上の価値及び近代日本庭園史における学術上の価値が高いことから、平成26年10月6日付けで国の名勝に指定されました。


ごふう4


◆がんこ「岸和田五風荘」

596-0073岸和田市岸城町18-1072-438-1162

http://www.gankofood.co.jp/yashiki/gofuso/

http://www.city.kishiwada.osaka.jp/soshiki/36/gofusou.html

旧岸和田城内の新御茶屋跡などに昭和年から10カ年の歳月を要し、造営された広壮な回遊式日本庭園。正門は奈良東大寺塔頭中性院表門を移築したもので、岸和田にゆかりの深い楠木氏の「楠」の字をもじって「南木門」と称されています。千坪の敷地には日本建築の粋をこらした主屋と庭園を見渡せる三つの茶室があります。平成21年月10日から「がんこ岸和田五風荘」としてオープンしました。

・・・残念ながら、お庭は整備中で見学できませんでした。

◆「岸和田市立図書館」

596-0073岸和田市岸城町1-18072-423-2121

http://www.city.kishiwada.osaka.jp/site/toshokan/

現在の図書館本館は昭和50年に開館しました(創立は昭和年)。郷土資料や視聴覚資料の収集もしているほか、来館が困難な方へのサービスの窓口にもなっています。

◆「岸和田市立岸城幼稚園

596-0073岸和田市岸城町1-21072-422-0881

https://www.city.kishiwada.osaka.jp/soshiki/3/20111207yochien100.html

明治45年に創立し、岸和田市立幼稚園の中では、一番歴史の長い幼稚園です。園舎は、何度か移転を繰り返し、昭和4811月に現在の園舎が竣工しました。平成23年には創立100周年を迎えました


ごふう5


◆「佐々木家住宅」/596-0073岸和田市岸城町12-23

岸和田城周辺には、上級家臣の住宅であった武家屋敷が数多くありましたが、当時の面影を残しているのは現在では、佐々木家のみとなっています。屋敷は、長屋門が築地塀を介して連続して並んでいて、藩政期の武家住宅地の様子が伝わってきます。内部は非公開です。

【参考】故佐々木勇蔵(1905~1985)コレクション短冊

https://www.city.kishiwada.osaka.jp/soshiki/70/tanzaku-lists.html

もと岸和田藩重臣佐々木家の末子として生まれ、戦後、地元銀行の設立に奔走し、昭和26年泉州銀行を設立、昭和38年には第3代頭取に就任されました。経済人として関西経済界の要職をつとめる一方、文化教育事業にも尽力され、日本少年野球連盟副理事長・岸和田市文化財保護専門委員・学校法人泉州学園名誉理事長・岸和田城跡保存会会長などを歴任、泉州地域の文化・教育振興に大きな功績を残されました。

◆「梅渓寺

596-0067岸和田市南町072-422-3739

http://www.city.kishiwada.osaka.jp/soshiki/36/baikeiji.html

曹洞宗永平寺の末寺で、慶長5(1600)年清頓和尚により草創開山、小出秀政により建立されました。その後、岡部宣勝が高槻から岸和田に移封した際、生母の位碑『洞仙院殿梅渓宗考大姉』を栃木の大中寺から転置、その墓碑を建立しました。寺名もこの戒名からつけられました。紀州街道を通って参勤交代をする徳川御三家の紀伊徳川家が一礼をして通ったというお寺、岡部宣勝の生母は徳川家康の姪だったそうです。