・・・待望のミュージアム(26)で「如意輪観音」について報告しましたが、今回は「弥勒菩薩」です。奈良「中宮寺」の弥勒さんは何度も拝観しているのに、京都「広隆寺」の弥勒さんは一度も観ていない、ということで。
【京福電気鉄道・嵐山線(嵐電)「太秦広隆寺駅」】
http://randen.keifuku.co.jp/map/07.html
【弥勒菩薩半跏思惟像】
台座に腰掛けて左足を下げ、右足先を左大腿部にのせて足を組み(半跏)、折り曲げた右膝頭の上に右肘をつき、右手の指先を軽く右頰にふれて思索する(思惟)姿の弥勒菩薩像である。日本には大陸より6世紀から7世紀の弥勒信仰の流入と共に伝えられ、飛鳥、奈良時代の作品が多く残されている。
◆「広隆寺」
616-8162京都市右京区太秦蜂岡町32/075-861-1461
https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=1000064
宗派は真言宗系単立。山号を蜂岡山と称する。蜂岡寺(はちおかでら)、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺などの別称があり、地名を冠して太秦広隆寺とも呼ばれる。帰化人系の氏族である秦氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した、京都最古の寺院である。国宝の「弥勒菩薩半跏像」を蔵することで知られ、聖徳太子信仰の寺でもある。毎年10月12日に行われる牛祭は、京都三大奇祭として知られるが、近年は不定期開催となっている。「宝冠弥勒」「宝髻(ほうけい)弥勒」と通称する2体の弥勒菩薩半跏像があり、ともに国宝に指定されている。宝髻弥勒像は飛鳥時代の木彫像で一般に使われるクスノキ材である。「宝冠弥勒」★(国宝彫刻の部第一号)は、右手の薬指を頬にあてて物思いにふける姿で知られる。しかしこの像は、当時多くの仏像が楠で造られているのに対して★赤松で造られているため、『日本書紀』記載の推古31年(623年)に新羅から伝来したものとする説が有力であった。ところが1968年、大きく抉られた内繰りの背板に楠材が使用され、背部の衣文もこれに彫刻されていることが判明し、断定できなくなっている。 この像の右の腰から下げられた綬帯(じゅたい)は、以前から楠木であることは知られていたが、これは後に付加したものとして考慮されていなかったが、二箇所の、特に背板に楠材が使用されていることは、楠が朝鮮半島南部に自生しているが、日本での使用例が多いため、日本で造像された可能性も出てきた。なお、制作時は漆で金箔を貼り付けた漆箔像であった。ヤニが出にくい赤松が素材に使用されているため余分な清掃の必要がなく、清掃作業中の人的過失によって破損してしまうことがなかった。また赤松と楠という2つの材質の含水率の違いから熱伝導率に差が生じ、外部の温度が上昇すると接着部に水蒸気の層が発生する。これがバリアの役目を果たすため、高温や急激な温度変化に強い特徴をもつ。これらの理由によって現代まで良好な状態のまま保たれたと考えられている。
※「宝冠弥勒」像高は123.3cm(左足含む)、坐高は84.2cm。
※「宝髻弥勒」像高90cm(左足含む)、坐高66.4cm。「宝冠弥勒」と同様のポーズをとる、像高はやや小さい半跏像である。朝鮮半島には現存しないクスノキ材製であるところから、7世紀末~8世紀初頭頃の日本製と見られるが異説もある。沈うつな表情で右手を頬に当てた様子が泣いているように見えることから「泣き弥勒」の通称がある。
【参考】「中宮寺」
636-0111奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北1-1-2/0745-75-2106
聖徳太子により、母穴穂部間人皇后の願いで法隆寺と対照的な位置に創建された寺。平安時代に衰退し、室町時代の天文年間に尼門跡寺院として復活する。ご本尊は★如意輪観世音菩薩半跏像で国宝に指定されている。東洋の考える像として有名で、世界の三つの微笑像のひとつともいわれる。本堂は昭和43年に建てられ、寝殿伽藍の様式で銅板葺きの屋根。池の周囲には山吹が植えられている。寺宝として、国宝・天寿国曼荼羅繍帳などがある。寺伝では「如意輪観音」だが、これは平安時代以降の名称で、当初は「弥勒菩薩像」として造立されたものと思われる。国宝指定の際の官報告示は単に「木造菩薩半跏像」である。飛鳥時代の作。像高132.0cm(左脚を除く坐高は87.0cm)。
・・・ここまで来たら「東映太秦映画村」に立ち寄るのが当然(自然)でしょう。初めてなので、ワクワクします。