◆湊町リバープレイス「なんばHatch」
556-0017大阪市浪速区湊町1-3-1/06-4397-0572
http://www.namba-hatch.com/intop.html
多目的複合イベントスペース。大阪市の都市構造再編プロジェクト「ルネッサなんば」のウォーターフロントゾーンとして、旧国鉄湊町駅(現 JR難波駅)の貨物ヤード跡地に開発され、2002年に開業した。プラザ1(地下2階)、プラザ2(1階)、プラザ3(2階)の屋外イベントゾーン3箇所と、エフエム大阪の社屋(プラザ3にオープンスタジオを設置している)、3階から6階を占めるライブハウス「なんばHatch」およびオフィスなどで構成されており、音楽・パフォーマンスイベントや展示会に幅広く使用されている。また、建物の一部を阪神高速道路の湊町出入口と共有しているほか、2階は湊町PAとしても利用されている。なお、湊町リバープレイスの他の施設と同PAは接続していない。道頓堀川を航行する遊覧船が使用する湊町船着場に接しているほか、JR難波駅や大阪シティエアターミナル (OCAT) およびバスターミナルからも至近距離にある。また、浮庭橋を渡ると南堀江方面にもアクセスが可能である。なんばHatch(は、本施設の中核施設となるライブハウス。当施設の3階から6階までを使用している。名称は、建物の外観が八角形であることが由来で、DJの谷口キヨコが決定した。
◆「道頓堀ホテル」
542-0071大阪市中央区道頓堀2-3-25/06-6213-9040
★1970年、我が国が、アジア初・日本初の「万国博覧会」の熱気に沸き、大阪に世界中から観光客が集まった年に、道頓堀ホテルは開業しました。やがて20年の歳月が流れ、正面玄関に「四体像」を設置したのは★1991年のことです。この像は向かって左から東洋人、アフリカ人、アラブ人、西洋人を表現しており、世界中のお客様をおもてなししたいという「道頓堀ホテル」の想いがこもっています。この創業以来、脈々と流れる「おもてなしの想い」は、時を経てさらに太い幹となり、今では、世界のお客様の「あったらいいな」を実現するホテルとして広く世界に知られ、「顔のホテル」として愛されています。
【参考】2011年9月「道頓堀の巨顔」人類はみなきょ~だいや(朝日新聞)
こんな巨大な顔が突然、目の前に現れたら、だれしも「ギョッ」と足がすくむだろう。大阪・ミナミに、その巨顔像はある。御堂筋から西へ入ってすぐの「道頓堀ホテル」。玄関先に4体が並ぶ。体のパーツは巨大な顔と脚だけ。しかも、頭のてっぺんから天井に向かって円柱が伸びている。どの顔も日本人ではなさそう。同ホテル常務の橋本明元さん(36)によると、「世界の4大人種を表現したもので、向かって左から東洋人、アフリカ人、アラブ人、西洋人」とのこと。「気を付け!」の姿勢で両足を指先までそろえた格好が、どことなく可愛げでもある。サイズは、頭部が高さ2メートル、脚の長さは1メートル。頭周りが4.6メートル。うーん、すさまじい巨顔。柱の高さは5メートルだった。前身は、祖父の廣喜さん(故人)が開いた銭湯「大阪温泉」。大阪万博の開催が決まり、廣喜さんが「これからはホテルや」と1970年12月にビジネスホテルを開業した。「巨顔柱」が登場したのは、ホテルがリニューアル・オープンした91年春。「シンボルを作りたかったと(社長から)聞いています」と橋本さん。「人の印象で一番残るのは顔。人類の顔はすべて違う。世界中の人に来てほしい、との思いを込めて世界の民族から代表的な四つの顔にしたんです」制作したのは★吉忠マネキン(京都市)。「うちの社長と吉忠の関係者が世界中を旅して、アイデアを練ったそうです」。型枠に樹脂を流し込んで制作したもので、中は空洞だ。制作費は4体で2千万円。
【吉忠マネキン】
604-8691京都市中京区御池通高倉西入綿屋町525/075-241-7551
http://www.yoshichu-m.co.jp/index.html
1946年★島津製作所より販売権及び製作権を得、婦人服メーカー★「吉忠」のマネキン部を前身として、1950年に分離独立しました。親会社の吉忠が服地を扱っていた為、マネキン製作と同時に陳列の為の器具の製造販売も手掛けました。現在もマネキン人形や器具の製造販売から商空間のディスプレー、VMD、スペースデザインの設計、施工、LEDの用途開発、サイン、造形力を活かしたレジャー施設や資料館の設計、施工等々多岐の分野にわたって「ものづくり」創作の伝統的精神を大切にしながら業務拡大をしてきました。時代のファッション先取りを担うマネキンも1992年10月に英国の有力マネキンメーカーであるルースティン・ホプキンスグループを買収してボーダレスな国際事業に発展しています。時代が求める「やさしさ」、「いやし」を大切にしながら、品格・美意識—品質・アート性の調和を求めて、「楽しく美しい時代」づくりに貢献したいと願っています。
◆1958「旧・新歌舞伎座」/設計:村野藤吾
542-0076大阪市中央区難波4-3-25
もともと大阪市には「大阪歌舞伎座」という劇場が戦前からありました。しかし、関西歌舞伎界の諸事情により戦後は観客動員が落ち込んだため、経営会社は客席数を減らし千日前にあった「大阪歌舞伎座」の後継劇場として、1958年に「新歌舞伎座」と名付けて誕生しました。。収容人員1,638人。歌舞伎座と銘打っているが当初から歌舞伎が上演されることは少なく、大衆演劇やコンサートなどが行われていた。2009年に老朽化を理由に閉館。新歌舞伎座は上本町に建設された上本町YUFURAへと移転した。2012年に冠婚葬祭業大手のベルコが土地を取得。跡地に結婚式場やホテル、本社機能を備えた複合ビルの建設を検討している。工事用フェンスに覆われているが、少しずつ内部の解体が進められているようで、今のところ大きな動きはみられない。
◆1948「はり重」道頓堀本店
542-0071大阪市中央区道頓堀1-9-17/06-6211-7777
大正八年、初代社長である藤本喜蔵が食都大阪で、よりおいしいものをより安くをモットーに開業した牛肉専門店で、百年近く皆様に愛され、親しまれてきました。今では「はり重」に行けば最高の牛肉が味わえると、大阪をはじめ日本全国、あるいは世界中の食通の方々にご好評いただいております。階上座敷ではしゃぶしゃぶコース、すき焼きコース、1階の洋食レストランではビーフステーキほか。隣接のカレーショップのビーフカレー、1階精肉店で肉類のテイクアウトも。
◆1923・1997「大阪松竹座」
542-0071大阪市中央区道頓堀1-9-19/06-6214-2211
http://www.shochiku.co.jp/play/shochikuza/
大阪松竹座は、大正12年(1923)関西初の洋式劇場として誕生しました。★大林組 の木村得三郎によって設計された正面の大アーチが特徴的なネオ・ルネッサンス様式の建築は、大阪の顔として親しまれました。開館は同年5月17日で、柿葺落し記念公演は、ドイツ映画『ファラオの恋』、松竹蒲田作品『母』、そして松竹楽劇部による実演『アルルの女』でした。その後、松竹楽劇部(後のOSK)の本拠地となり、大正15年(1926)4月には、以後恒例となるレビュー『春のおどり』の第一回公演が行われました。松竹楽劇部をメインに、海外の舞踊団、俳優による実演も行われ浪速の新しい文化の拠点となっていきました。以後戦前は洋画を中心に、戦中と戦後すぐには邦画封切館として興行、そして、昭和27年(1952)7月からは洋画封切館として再発足、数々の名作を上映し、平成6年(1994)5月洋画封切館としての歴史の幕を閉じました。大阪松竹座の新築開場記念式典が平成9年(1997)2月26日、盛大に開催されました。
1階のデザインは、外壁のネオ・ルネッサンス様式のアーチを意識して、壁、床をサンドベージュ色のイタリー大理石で欧風に仕上げています。正面玄関を入ると、右側が総合案内カウンターになっています。正面の壁面には★ビュッフェ作の『暫』の絵画が掛かり劇場の雰囲気を醸し出しております。
2階のデザインは"少し"和風をテーマにしています。壁面は1階と同じ大理石を使っていますが、床面には和風をイメージした絨毯と、左右壁面に配された★中島千波画伯の1月から12月の四季折々をテーマにした12枚の日本画が掛かっております。この階は劇場メインロビーとして使用されます。ソファーを配した正面奥にお土産、お弁当等を販売する売店。左右の通路を入ると女性用トイレが和式、洋式がそれぞれ12個ずつ並び、観劇の主体である女性客を考慮した設計がされております。また、右の通路を入ると男性用トイレ、左の通路を入ると有料のコインロッカーを常備しております。
3階に上がり観音開きの二重のドアを開けて場内に入ると、柿色を基調とした緞帳がお客様を迎えます。この緞帳は、高倉家に伝わる調進控有職文様絵形の下絵集成の中から取材した『有職麗華』という題名です。また、緞帳を縁取るプロセニアムは公演内容に対応出来るよう、上部が可動します。これは日本初の装置で、例えば歌舞伎の場合7.3メートル、ミュージカル等の時は9.0メートルになります。553席の椅子と壁、床面は赤を基調として日常性から遊離した演劇空間を演出しています。本花道は勿論のこと仮花道の設置、オーケストラ使用時はピットも出来るよう設計されています。また、天井埋め込み式宙乗りレールが2基用意されています。緞帳が上がると無節の国産檜で張られた舞台が目に入ります。廻り舞台の中では、転換をスピーディーに行う大小7基の迫りが内蔵されています。また、スッポンは2分割されていて『伽羅先代萩』などの狂言によって活躍します。また、ロビーの壁面には★小田次男作の『伊達娘恋緋鹿子(お七)』の絵画が掛かっております。
◆「中座くいだおれビル」
542-0071大阪市中央区道頓堀1-7-21
空襲で焼失するも、1948年・昭和23年に木村組の大阪支店長、安倍恒夫の施工により再建され、藤山寛美が松竹新喜劇の上演の拠点にするなど、上方芸能を支えた。老朽化と営業不振で1999年閉館され、大阪府の文化財の破風を残して、取り壊された。その時の解体工事でガス爆発を起こし、近くの法善寺横丁が被害を受けた。その後、飲食店が入ったビル「セラヴィスクエア中座」を経て、2009年7月、閉店したくいだおれの名称を借り受け、「中座くいだおれビル」となり、★「くいだおれ太郎」が1年ぶりの復活を遂げるなど、現在も『中座』の名前は残り続けている。かつて中座の奈落に祀られていた「柴右衛門狸大明神」が同ビルの4階に移されたが、2000年に「里帰り」し、現在は洲本八幡神社に祀られている。
現在の運営元は「ザイマックスプロパティズ関西」。道頓堀は、かつて芝居の街として活気に溢れ、大阪を代表する繁華街として大勢の人が集まってまいりました。現在は道頓堀を取り巻く状況が変わりつつあるものの、それでも大阪の象徴として、またアジアの象徴として、世界に一つだけの魅力あるストリートとなっています。今回、その道頓堀の一角にある「中座くいだおれビル」を新しくリニューアルすることで、少しでも道頓堀に、そして大阪に活気が戻り、またバイタリティ溢れる道頓堀になればという願いを込めています。
【くいだおれ太郎】
くいだおれ人形作者である二代目由良亀(藤本雲並)は、淡路島・洲本市由良町出身で、淡路人形浄瑠璃の頭(かしら)の製作に携わっていた人物である。文楽にゆかりの者が由良を通りがかった折に由良亀の秀作に目を留め、「このまま淡路人形浄瑠璃の頭作りで終わるには惜しい腕だ。ぜひ大阪に出て文楽の頭を作らないか。」と声をかけたのが大阪にでるきっかけとなった。およそ1946~1948年頃に大阪に出、文楽人形浄瑠璃の人形製作者となる。その後、後進をも師事し、文楽振興に貢献している。谷崎潤一郎が淡路島に逗留しながら書いた初期の小説『蓼喰ふ虫』の中にも「由良亀」として登場し、谷崎潤一郎の小説のモチーフとして協力している。くいだおれ人形は1949年に由良亀が淡路島から大阪へと出た当初、アルバイトで製作したもので、本業の浄瑠璃の頭(かしら)製作者としても作品を残している。由良亀の製作した人形の頭(かしら)は、洲本市立淡路文化史料館にも保存されている。
※「柴右衛門狸大明神」
◆道頓堀「角座」
542-0071大阪市中央区道頓堀1-4-20/06-7898-9011
http://www.kadoza.jp/dotonbori/
「角座」の名称は、「角の芝居」と呼ばれた江戸時代に遡ります。「角座」は、1960年~70年代には、上方演芸の殿堂として栄えました。その後、「角座」の名称は、松竹(株)の直営映画館(大阪市中央区)や弊社直営の劇場「B1角座」(大阪市中央区)に引き継がれていましたが、2008年の角座ビル(大阪市中央区)の閉館と共に、消滅致しました。この由緒ある名称を、日本のエンタテインメントの中心である東京・大阪で復活させ、新たな歴史をスタートさせたいと考えております。この劇場から、日本を代表するエンタテインナーが続々と輩出され、文化の発展に寄与できるものと考えております。