・・・せっかくなので「大正区」を散策してみます。
【参考】「難波島渡し跡」/大阪市大正区三軒家東3-3
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000011276.html
http://www.city.osaka.lg.jp/taisho/page/0000011323.html#no08
難波島は木津川と三軒家川に挟まれた島であったが、当時の渡しはこの難波島と対岸(東)の月正島を結んでいた。「摂津名所図会大成」に「木津川にあり この地船大工職多く常に海舶を作事す」と述べ、さらに「芦分船言 昔日難波の住人ひらきし所なれば此島の名とするにや云々 いつくはあれど此浦のけしき猶いふにたらず」と記している。第二次大戦後まで難波島と周辺の川沿いには★造船所が数多くあった。昭和57年まで運航されていた市営の渡船場は、大正区三軒家東三丁目と浪速区木津川二丁目を結ぶ、岸壁間75メートルの渡しであった。
◆「大浪橋」
木津川筋で、戦前に架けられた橋としては最下流にあたり、第二次都市計画事業によって架けられた。大きな帆船が頻繁に上り下りするため、橋脚を無くして、川幅を一跨ぎする橋が架けられた。橋梁形式はアーチ部材がトラス状のブレストリブタイドアーチ橋が採用され、重厚な景観を造りだしている。また橋の桁下高を確保するために、橋面が高くなり、取り付け道路はかなり長くなっている。大浪橋の名は大正区と浪速区を結ぶ新橋ということで区名の一字ずつをとって付けられた。
●「勘助島の渡し碑」
大浪橋の西北高欄そばに、「道標」が建てられています。刻まれている文字は、「(正面)わたし 勘助島、(右面)すくちかみち なんば 今宮 天王寺、(左面)住吉あ三田池(=阿弥陀池) 道頓堀」で、この辺りに渡し場があり、勘助島と難波島を繋いでいました。古くからの交通の要地でした。
◆上の宮「八坂神社」/大阪市大正区三軒家東2-7-18
区内には八坂神社が2箇所にあり、当神社は人者は上(かみ)のやさかさんと呼ばれています。当神社は、三軒家村の開発の大功労者である中村勘助(木津勘助とも呼ばれる)が、京都市東山区祇園町に鎮座する八坂神社の御分霊を勧請した正保4年(1646)9月が起源である。社殿は、初め三軒家東2丁目の中央にあたる所に建立されたのが、宝永4年の大津波の水害を被ったため、正徳年間に現在の社地に遷座した。大正8年、中村勘助彰徳会を興し境内に彰徳碑を建立した。昭和20年3月戦災により社殿は焼失したが、その後昭和32年5月に再建され、平成8年11月御鎮座350年祭を盛大に斎行したところである。
【木津勘助】(1586~1660)
木津川浚渫を行い姫島(現在の三軒家地域)を開墾した大正区一帯の開祖。寛永の大飢饉(1639年)の際に、飢える農民を救うために幕府の米蔵を襲い米を配布したのちに奉行所に自首。流刑後斬に処された。だがしかし彼が流刑になった後にも大正区の歴史に彼の名が出てくる。老衰で亡くなったという記録もあり彼が襲った幕府の米蔵は1639年には無かったという記録も。公的な記録以外に、落語や浪曲・歌舞伎の演目としても木津勘助は語り継がれている。
◆大正橋公園「木津川口遠見番所跡」/大阪市大正区三軒家東1-1
当地はかつて姫島と呼ばれていましたが、義民として名高い中村(木津)勘助が、慶長15年に豊臣家のために軍船係船所の建設や船着場の整備等を行い、その功により勘助島と名づけられました。その後、宝永5年に幕府が木津川遠見番所を当地に設けると諸国の船で賑わって木津川は大阪経済を支える大動脈となりました。
◆「大正橋」/大阪市大正区三軒家東1丁目地先
旧大正橋は、工業地帯として急速に発展していた大正区と旧市内とを結ぶ幹線道路として大正4年に初めて架けられました。支間長90mという当時日本で最大のアーチ橋でしたが、設計基準の確立されていない時代に設計されたということもあって傷みが激しく、都市計画道路の拡幅を機に下流側に新しい橋が架けられ、昭和46年に撤去されました。その後、上流部への拡幅が行われ、52年に大正区と浪速区を結ぶ現在の姿(橋の長さ 79.96m 幅員 41m)になりました。この橋の欄干を五線譜に見立てて、ベートーベン作曲の第九の譜面が、また歩道にはメトロノームの堰堤、路面にはピアノの鍵盤がデザインされています。
【参考】東詰北側には小公園が整備され、その中には安政2年(1815年)に前年大坂を襲った大津波の模様を記録した大きな碑が建てられています。
◆大正区と西区を結ぶ「岩松橋」
岩崎運河の東端に大正11年、新しく岩松橋が架けられた。市電松島南恩加島町線にあたり、橋長66.4m、幅員14.6メートルで、4径間の単純鋼鈑桁が用いられている。その後、平成9年(1997)に道路幅員が拡幅され、35mの単弦ローゼ形式のアーチ橋に架け替えられた。平成13年(2001)秋に岩崎橋と岩松橋との間、大正区側の尻無川護岸壁に区民の手で描かれた「描こう!わがまち大正ギャラリー」が整備されている。大正区内の「岩松橋」に、橋名板を設置することになり、市民に愛される橋を目指し、また市民協働の観点から、橋名板の文字を当区在校中学生に揮毫してもらうことになりました。そして大正区内4中学校より推薦いただいた書字について、大正区まちづくり委員会役員、学識経験者、区長による選考の結果、大正北中学校3年生の三木葉月さんの書字に決定しました。2009年12月8日にその橋名板が完成し同校で揮毫者・三木さん立会いの下、そのお披露目を行いました。岩松橋に設置される橋名板は銅製で重さ約40キログラムもある重厚な物です。
◆道頓堀川水門
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000010881.html
尻無川に架かる岩松橋を渡ると、道頓堀川に設置した可動水門が正面に見え、この水門のお陰で道頓堀川の水質がかなり改善されているようです。
◆「大阪ドーム前千代崎港」/大阪市西区千代崎3丁目、木津川右岸
http://www.osakacitycruise.net/
http://kinki-ships.com/route_cat/area03-03/
・・・「大正区」もなかなか興味深いところですね。またの機会にゆっくりFWしたいものです。