・・・「待望のミュージアム」で紹介したシンポジウム「渋沢栄一と大阪(於:綿業会館)」では、「東洋紡績」と「京阪電車」を2本柱として話が進められ、とても興味深い内容でした。「紡績・赤煉瓦建築」とも関連しますので、引き続き展開していきたいと思います。
「綿業会館」のところで紹介しませんでしたが、イタリアルネッサンス調にまとめられた1階ホール中央の銅像は、東洋紡績専務取締役「故・岡常夫」さんです。銅像は戦時中供出されましたが、原図に基づき復元されたものです。やすこ未亡人から「日本綿業の進歩発展をはかるため」(故人の遺言として)100万円の寄付を受け、これに関係業界からの拠出金50万円を加えた150万円の基金(現在の貨幣価値は約75億円)で建設されたわけですから、当然この位置に据えられるべき銅像です。同年に再建された大阪城の修復費用とほぼ同じだったと言われるほどの、スゴイ建物なのです。
【岡常夫】(1863~1927)
志摩半島出身、1882年(明治15)上京し東京商法講習所に学ぶ。優秀な成績であったが卒業目前に中退し、2年間渡米。帰国後に前橋の生糸商へ就職するが、1890年(明治23)の恐慌で商店が破綻。帰郷して縁のある伊藤伝七の三重紡績会社へ1892年(明治25)入社し、夫人と共に伊藤家に寄寓。大阪出張所主任、本社支配人を務め、日露戦前後の苦境を乗り切る。朝鮮半島への綿布輸出を手掛る三栄綿布組合や、満洲輸出組合の発展にも尽力。国内の多くの紡績会社の合併買収にも関わり、三重紡績は国内有数の規模に成長。1914年(大正3)大阪紡績と合併し東洋紡績が誕生すると、岡は取締役として会社の発展に貢献する。
■東洋紡株式会社
(本社)530-8230大阪市北区堂島浜2-2-8
1879年(明治12)★渋沢栄一により、紡績事業計画を策定する。
1882年(明治15)東洋紡の基盤となる★大阪紡績株式会社を設立する。日本初の本格的な紡績会社として操業を開始する。
1886年(明治19)★三重紡績株式会社を設立する。
1888年(明治21)金巾製織株式会社を設立する。
1906年(明治39)金巾製織と大阪紡績が合併する。
1914年(大正3)大阪紡績と三重紡績が合併して★東洋紡績株式会社が設立される。
1927年(昭和2)レーヨン事業に進出する。
1949年(昭和24)株式を公開する。
1966年(昭和41)呉羽紡績を合併する。
2010年(平成22)3月1日に東洋化成工業を合併する。同社の精密化学品事業本部となる。
2012年(平成24)創立130周年を機に正式社名を★東洋紡株式会社に変更。
・・・「東洋紡ビル」には、流政之さんの作品1982「恋のえん」「男の花道」が設置されています。さて、「東洋紡」のもとになった「大阪紡績」跡地にも行ってみましょう。
◆JR・地下鉄「大正駅」
現在の大阪環状線にあたる鉄道路線は、関西本線の貨物支線として1928年に開通していたが、旅客線化は30年以上後の大阪環状線成立時である。それまでの大正付近に行くには★市電・市営バスだけであった。
1961年(昭和36)日本国有鉄道の西九条駅~境川信号場間開業による大阪環状線成立に合わせ、同線の大正駅が境川信号場~天王寺駅間に新設開業。
1987年(昭和62)国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道の駅となる。
1997年(平成9)★「地下鉄大正駅」が開業。
2015年(平成27)JR西日本ホームに★『てぃんさぐぬ花』を発車メロディとして導入。
大正区は交通が不便な町であるため、自転車を駅前に駐輪し、市内や市外へ通う様子が多く見られる。普段の駅は通勤通学時以外は閑散としていて利用者が少ないが、★「京セラドーム大阪」でのイベント時は大変混雑する。大正区内には★沖縄県出身者のコミュニティがあり、駅周辺には沖縄料理店が点在する。駅の北東で、木津川と道頓堀が合流し、木津川と尻無川(岩崎運河)に分かれる。
◆「三軒家公園」/大阪市大正区三軒家東2-12
http://www.city.osaka.lg.jp/taisho/page/0000011323.html#no03
延宝3年(1675)に出された、大坂の名所案内書である「芦分船」によると家数の少なさから「三軒屋」と名付けられた当地も「次第に人家が満々、軒をならべ繁栄して、旅泊の船出入繁く」としており、「芦分船」が発行される少し前の明暦3年(1657)には当地での「川口遊里」が禁止されるまでになっています。貞享元年(1684)に天満組替地(てんまぐみかえち)となり、当地の一部は大坂三郷に入りました。幕府の「木津川口遠見番所」や「御船蔵」が置かれ、摂津名所図会にも「千石・二千石の大船、水上に町小路を作りたる如く舳先には船の名、家々の紋付けて其国をしらせ、風威の順不同・潮時の満干を考えて出帆あり着船あり」とし、薩摩(現鹿児島県)・日向(現宮崎県)船の着船の記録も見えます。北国航路の和船係留地であった木津川には和船が1000艘以上にもなったので、明治14年(1881)には三軒家川を開削、「船囲い場(178,000平方メートル)」を現在の三軒家東3丁目に開設しました。その名残りが今もあります。(江戸時代には「三軒家」は「三軒屋」と表記されることが多かった。)
★「近代紡績発祥の地」記念碑
551-0002大阪市大正区三軒家東2丁目三軒家公園内
http://www.city.osaka.lg.jp/taisho/page/0000011323.html#no13
大阪紡績が操業開始時、つまり日本の初期の紡績業は紡錘機1基当たり、紡錘数が2千でした。そしてこの2千錘のミュール紡錘機1機のみで一工場で生産を行うという小規模なものでした。その中にあって大阪紡績は紡錘数が1万5百錘、動力には蒸気を使い操業を開始、ここに大規模近代的な紡績業が始まったわけです。明治16年7月に、東京・大阪の実業財界人渋沢栄一や藤田伝三郎らが出資した大阪紡績会社(通称:三軒家紡績)が、当地「三軒家村」で操業を始めました。この大阪紡績会社は大正区の近代工業を飛躍的に発展させ、大阪の紡績業を日本一に押し上げる原動力となりました。三軒家村は古くから船着場としてにぎわい、石炭や原料の綿花の搬入や製品の運搬に便利なため選ばれたといわれています。操業間もなく夜業を始めましたが、明治19年に発電機を購入し、初めてあかあかと電灯がともり工場全体が不夜城のように浮かびあがり、各地から電灯の見学者が殺到しました。工場はまたたく間に拡大発展し、業界に傑出した地歩を確立しました。明治20年代には、当地を中心に数多くの紡績、繊維会社ができ、日清戦争から日露戦争時代にかけて大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれるにふさわしい発展をとげました。その後、大正3年、昭和6年に他社と合併して世界最大の紡績会社に発展しましたが、戦争激化とともに昭和16年(1941)11月、軍需工場に転換させられ、住友金属などが使用していましたが、昭和20年(1945)3月の大阪大空襲で焼失。戦後の昭和23年(1948)、大阪市が土地を買い上げ三軒家東小学校と三軒家公園になりました。記念碑は、昭和36年(1961)3月大阪市によって建立されたものです。