◆【天門美術館】◆
573-0049枚方市山之上北町3-1/072-841-0006
・・・「大教」に設置されていた作品に、よく似た彫刻がありました。
美術館は、市内在住の彫刻家・池田遊子(いけだゆうし1909~2006)が昭和40年(1965年)2月に現在の場所に財団法人・造形美術センターとして開館し、後に天門美術館と改称したもの。遊子氏没後は、遊子氏の長男で彫刻家で書家である池田方彩(いけだほうさい・57歳)氏が館長として運営を引き継ぎ、近世~近代の隠れた名作を紹介する企画展なども定期的に開催している。平成26年4月には、約50年に渡る公益性の高い活動が認められ公益財団法人に認定された。平成27年(2015)に開館50周年を迎えたことを記念して、草聖と呼ばれる中国の書の大家・于右任(うゆうじん1879~1964)の書25点を展示する特別記念展「草聖于右任書法名品展~拙心コレクション~」を開催している。会期は4月7日(火)から29日(祝)まで。池田遊子氏は2006年に97歳で亡くなるまで現役で活躍した彫刻家。戦後は前衛芸術運動の影響を受け、それまでの伝統的な彫刻の形式にとらわれない極端に抽象化されたフォルムの作品を発表し話題を呼んだ。また誰もが鑑賞できる芸術を目標とする「街頭芸術運動」を提唱し、人間の生活に根ざした芸術の姿を追い求める活動を続けた。昭和40年造形美術センター(後に(財)天門美術館と改称)を開館し制作拠点とした。長年、市内で芸術活動を続け、中でも平和を願う市民団体の寄付で建てられた王仁公園の「恒久平和像」は高さ17メートルと市内最大級の作品で特に市民に親しまれている。特別展会期中も池田遊子の彫刻作品を併設。そのいずれもが「人間謳歌」のテーマを表現追及したもので、奔放不羈なる在野精神が横溢しています。当館の名称は漢籍の古典にある「龍向天門入紫微」に由来するものです。その名に恥じない美術館でありたいと、日々努力しております。
【池田遊子】
明治42年、広島県深安郡手城村に生まれる。本名保夫。昭和2年、上京して宮彫師佐藤藤太郎一重の徒弟として後藤派堂宮彫刻を修める。昭和6年来阪し各寺院の意匠彫刻を手掛け、自ら「方正」と号す。昭和9年、「鵬旭」と号を改め、独学で直彫り立体彫刻を研究。各種展覧会に出品し複数回受賞。昭和14年、「聖戦美術展」では木彫『黙禱』を出品し、政府買い上げとなる。昭和22年、大阪市立美術館3階(天上裏)に研究工房を設け、号も「遊子」と改め、新時代を先見して関西彫刻家協会(委員長)、日本生活美術連盟(委員長)大阪府デザイン講座(講師)、大阪府文芸懇話会(会員)等を歴任。その間に前衛的な抽象彫刻を制作。昭和26年、ピカソ展の向こうを張る形で大阪市立美術館にて大規模な個人展を開催して耳目を集める。昭和33年、大阪府知事赤間文三氏の肝煎りで財団法人設立の認可を受け、理事長に就任。昭和40年枚方市山之上北町に美術館を建設開館する。
●開館50周年記念特別企画
「草聖・于右任書法名品展」2015年4/7~4/29
【于右任(うゆうじん)】1879~1964
中華民国の政治家、書家。名は伯循、字は右任、筆名は騒心、大風など。三原県(陝西省)の人。日本留学中に孫文と出会い、以後中国民主革命の先駆者として活躍した。詩文をよくし、書は石門頌や龍文二十品を学び、各体に優れたが、とりわけ草書をよくした。書法にとらわれない超俗的な書法には風韻があり、南京・上海・台湾などで重んぜられている。
・・・「大教」への作品寄贈についてお聞きしますと、やはり「大阪市立美術館」の研究工房で制作していた頃のご縁のようです、ということでした。
・・・また、奔放な作風について「遊子」という号そのものなんです、と笑顔で語ってくださり、楽しい時間を過ごさせていただきました。ありがとうございました。