姫路旅(9) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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国宝姫路城

670-0012兵庫県姫路市本町68姫路城三の丸広場北側/管理事務所079-285-1146

平成5年12月、奈良の法隆寺とともに、日本で初の世界文化遺産となりました。シラサギが羽を広げたような優美な姿から「白鷺城」の愛称で親しまれる姫路城。白漆喰総塗籠造りの鮮やかな白の城壁や5層7階の大天守と東、西、乾の小天守が渡櫓で連結された連立式天守が特徴です。今、私たちが目にしている姫路城の大天守は、慶長14(1609)年に建築されたもの。400年以上が経過した現在でも、その美しい姿を残しています。


・・・改修前、改修中、そして今回で3度目の「姫路城」です。参考に、改修中の画像(2012.08.05)をまず紹介しておきましょう。


ひめ1


姫路城に長~い列登閣再開後、初の週末

世界文化遺産・国宝姫路城(兵庫県姫路市)の大天守への登閣が再開されて初の週末を迎えた28日、開城時間の午前8時には約1200人が入城口前に並んだ。この日は、城内の桜の開花も宣言。大勢の観光客や花見客らが、柔らかな春の日差しに輝く純白の「白鷺城」を楽しんだ。姫路城管理事務所(同市)によると、午後4時の閉城までに約1万2387人が訪れ、待ち時間は最大90分となった。ただ、グランドオープン初日の27日と同様、登閣制限となる1日当たり1万5千人は下回った。登閣者は城内の太い柱や梁といった建築美や、市街地を一望できる最上6階からの景色を堪能。城内の広場は天守を撮影する人や、桜の木の下でレジャーシートを広げる家族連れらであふれた。「平成の大修理」中で登閣できなかった4年前の悔しさを晴らしに来たという東京都の会社員(42)は「殿様気分を味わえた」と、大天守からの眺めに満足そうな笑顔を見せた。


ひめ2


姫路城の始まりは、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範による築城とする説が有力で、『姫路城史』や姫路市ではこの説を採っている。一方で赤松氏時代のものは砦や館のような小規模なもので、城郭に相当する規模の構築物としては戦国時代後期に西播磨地域で勢力を持っていた小寺氏の家臣、黒田重隆・職隆父子による築城を最初とする説もある。戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏や羽柴氏が城代になると、山陽道上の交通の要衝・姫路に置かれた姫路城は本格的な城郭に拡張され、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張された。


ひめ3


江戸時代には姫路藩の藩庁となり、更に西国の外様大名監視のために西国探題が設置されたが、城主が幼少・病弱・無能な場合には牽制任務を果たせないために城主となる大名が頻繁に交替している。池田氏に始まり譜代大名の本多氏・榊原氏・酒井氏や親藩の松平氏が配属され、池田輝政から明治新政府による版籍奉還が行われた時の酒井忠邦まで約270年間、6氏31代(赤松氏から数えると約530年間、13氏48代)が城主を務めた。


・・・ようやく、お城の中に入れました。


ひめ4


明治時代には陸軍の兵営地となり、歩兵第10連隊が駐屯していた。この際に多くの建物が取り壊されたが、陸軍の中村重遠工兵大佐の働きかけによって大小天守群・櫓群などが名古屋城と共に国費によって保存される処置がとられた。昭和に入り、太平洋戦争において姫路も2度の空襲被害があったものの、大天守最上階に落ちた焼夷弾が不発弾となる幸運もあり奇跡的に焼失を免れ、現在に至るまで大天守をはじめ多くの城郭建築の姿を残している。昭和の大修理を経て、姫路公園の中心として周辺一帯も含めた整備が進められ、祭りや行事の開催、市民や観光客の憩いの場になっているほか、戦国時代や江戸時代を舞台にした時代劇などの映像作品の撮影が行われることも多く、姫路市の観光・文化の中核となっている。


ひめ5


・・・覚悟はしていたものの、やっぱり疲れました。長蛇の列をこらえながら「天守閣」の真下まで辿り着いたのですが、順番待ちの大群衆を眼前に心折れてしまいました。これ以上、ここで時間を過ごすことはできません。他にいろいろ観たいミュージアムがあるので、一気に階下へ城外へ。庶民としては、やっぱり「お城」は外から眺めるのが一番、かもしれません。