◆【播磨町郷土資料館】◆
675-0142兵庫県加古郡播磨町大中1-1-2/079-435-5000
http://www.town.harima.lg.jp/profile_shisetsu_shiryokan
弥生語が唯一聞ける大中遺跡出土品を展示した資料館。他に郷土の偉人「新聞の父 ジョセフ・ヒコ」や「新井開削の父 今里傳兵衛」をはじめ別府鉄道の資料なども展示。屋外には別府鉄道の機関車と客車があり乗車することもできます。
※別府鉄道
播磨灘に面する別府港と内陸部とを結んだ軽便鉄道。化学肥料を製造する★多木製肥所(現在の多木化学株式会社)の製品を出荷し、官設鉄道(現在のJR)まで運搬する目的で設置されました。1921年(大正10)、別府港口駅―野口駅間を走る野口線が開業(3.7キロメートル)。その2年後の1923年(大正12)には土山駅とのあいだを走る土山線(4.1キロメートル)が開業しますが、山陽本線と接続する土山線の開業にともない、貨物輸送はおもに土山線、旅客輸送は野口線がそれぞれになうこととなりました。その最盛期は1960年代。しかし、自動車の普及にともなって輸送形態が激変し、1984年(昭和59)1月31日をもって、63年間の鉄道営業にピリオドが打たれました。現在、別府鉄道の遺産の多くは土山線の沿線に位置する大中遺跡公園内の播磨町郷土資料館に保存されています。資料館の裏手に静態保存されている車輌。前方側のディーゼル機関車DC302は、1953年(昭和28)、川崎車輌(現在の川崎重工業株式会社)で製造されたもの。重量30トンで全長8.33メートル、幅2.74メートル、高さ3.7メートルからなる車輌です。廃線からすでに30年以上の歳月が流れていますが、いまなお別府鉄道で活躍していた車輌が見られます。
【参考】別府鉄道ラストランの雄姿復活・愛好家がヘッドマーク寄贈
1984年に廃止された別府鉄道の最終運行で、車両に取り付けられたヘッドマーク2枚がこのほど、兵庫県の播磨町郷土資料館(同町大中1)に寄贈された。鉄道愛好家の男性2人がそれぞれ所有していたが、同資料館が「廃止30年」と銘打った特別展を開くことを知り、提供を決めた。別府鉄道は、肥料メーカーの多木製肥所(現多木化学、加古川市)が自社製品輸送のため、1921(大正10)年に開業。主に別府港-野口駅の野口線、別府港-土山駅の土山線の2路線で運行した。しかし、自動車の普及やトラック輸送への移行などで、いずれも84年に廃止。2路線跡には遊歩道が整備された。ヘッドマークを寄贈したのは、愛好家団体「日本レイルファンクラブ」の会員だった杠泰郎さん(52)=埼玉県久喜市=と、上田隆浩さん(54)=明石市大久保町茜。同クラブは84年1月31日の最終運行を盛り上げようと、車両に取り付けるヘッドマークを制作。多木化学の社章と「さよなら別府鉄道1」のメッセージを刻んだ2枚を提供した。当日は珍しく雪が舞う中を車両は勇壮に走り、多くのファンに見送られたという。廃止後、土山線用のヘッドマークを杠さんが、野口線用を上田さんがそれぞれ引き取り、保管していた。上田さんは「当時でもレトロ感のある貴重なローカル線だった。廃止から30年がたったと思うと感慨深い」と話す。2015年10~11月に開く特別展では、最終運行日のヘッドマークをはじめ、廃止前の鉄道の写真や、実際に使われていた切符、車両の部品などを展示する。同資料館は、土山線の機関車「DC302号」と客車「ハフ5」を敷地内に展示しているが、特別展を前に修復を進めており、2015年3月10日に完了する見込みという。(神戸新聞より)
・・・「別府港」に行ってみることにしました。
※東播磨港
港域は旧の伊保港・曽根港・高砂港・二見港・別府港より構成されています。旧別府港は太古「阿閇津」と称し景行天皇の御代(西暦313年)に開発され、天正年間(西暦1573~1592年)には戦略上の要港として、金物その他、重要物産の多くが移出され、その後港内の改修等により播磨地域産出の物品の移出が増大し、明治維新頃まで近隣の諸港をしのいでいました。又旧二見港については、安政4年(西暦1857年)避難港として改修されたが、時世の変遷に伴い船舶による貨物の出入が行われました。旧高砂港は加古川河口右岸に位置し、元和年間(西暦1615~1623年)建設資材の集積、年貢米の集散、および製塩業の発達により海上交通が繁栄しました。旧伊保港、旧曽根港についても、古くから製塩並びに海産物、青果物その他の諸物資の交流が盛んであったと言われています。以上各旧港においては、それぞれの歴史の変遷とともに幾多の盛衰を経て、明治、大正そして昭和を迎えました。昭和38年7月本港の背後圏が工業特別地域の指定を受けたのを契機として、昭和38年11月これらの港を統合し、東播磨港となり、播磨工業地帯東部地域の中核をなす港湾として昭和39年2月重要港湾に指定されました。これらと前後して、工場適地の臨海部に於ける埋立造成工事が高砂地区、伊保地区、加古川地区、播磨地区、二見地区と順次施工され、臨海工業用地は全体で10,685,000平方メートル、内ふ頭用地は321,000平方メートルです。これと並行し、東播磨港の港湾改修が順次進められ、漸く近代的な港湾に脱皮し、更に本港のもつ優秀な経済的、自然的工業立地条件に伴って背後地域は機械工業を中心に、臨海部は鉄鋼、石油、化学等を基幹に各種企業が進出しています。東播磨港は瀬戸内海東部に位置する重要港湾で、港湾区域約3,766haを有し、陸域は東西約14キロメートル、明石市、播磨町、加古川市、高砂市にわたり、西側に隣接する特定重要港湾姫路港と共に、播磨工業地帯の中枢港湾として重要な役割を果たしています。本港の取扱い貨物量は、平成21年において外貿18,038千トン、内貿14,420千トン、合計32,458千トンでその内訳は輸出2,385千トン、輸入15,653千トン、移出7,566千トン、移入6,854千トンであり、主要な取扱い貨物としては、輸出においては金属機械工業品、輸入においては、鉱産品です。
★「多木浜洋館」/加古川市別府町東町174
学校法人「多木学園」別府幼稚園/加古川市別府町新野辺1201/079-437-8176
http://www.hamayoukan.befu-youchien.com/
この建物は、多木化学株式会社の創立者である★多木久米次郎が、賓客を迎えるために建築したものである。大正7年頃より和風建物(現農園)の西側を整地し、吉川豊吉氏(神戸市)によって基礎工事を完了し、続いて、藤原岩太郎氏(播磨町)により軸組、外壁、屋根などの主要部分を建設し終えたのが大正13年であった。しばらくは工事は中断されていたが、昭和初期に再開され、西村貿易店(京都市)によって内装工事が完成したのは昭和8年頃で、設計者は不明である。
・・・とても存在感のある建物です。