・・・「船場」から少しはずれますが、「蔵屋敷」関係で「中之島」方面に向かいます。
◆「三井倉庫土佐堀事務所トランクルーム」
550-0001大阪市西区土佐堀2-4-9/06-6443-6471
・・・「三井倉庫」の南東角には「薩摩藩蔵屋敷跡」碑が建てられています。昔は「蔵屋敷」今は「倉庫」ですね。「住友倉庫」も紹介しておきます。
◆1929「住友倉庫川口営業所トランクルーム」
550-0021大阪市西区川口2-1-5/:06-6581-1396
安治川流域の運河に多く見られた戦前の倉庫街にのこる数少ない建築物。道路に覆いかぶさるように建てられた巨大な住友倉庫は1929(昭和4)年に竣工し、80年以上も経た今でも現役で使われている。
◆2003「味の素グループ大阪ビル」/設計施工:清水建設
530-0005大阪市北区中之島6-2-57/2F食のライブラリー06-6449-5842
味の素では全国で最も大きい支社ビルで、東京本社のバックアップ機能を備える。 ビル内には世界の食に関する専門図書館「食のライブラリー」があり、テストキッチンで料理教室が催されるなど地域に開かれている。
※味の素食の文化センター http://www.syokubunka.or.jp/
・・・今後も多くのビルなどの建替えがあるに違いありませんが、せめてこのような形ででも、貴重な歴史資料・文化財等を広く発信していただきたいと思います。そして、中に入らなくても観れる「ウィンドウ・ミュージアム」をもっともっと増やしてほしいです。(ビル内に入るのはやはり敷居が高いですよね)
◆龍野藩蔵屋敷跡
味の素グループ大阪ビルが建てられる前に、発掘調査が行なわれました。この地は、各藩の蔵屋敷の入れ替わりが激しい土地でしたが、天保期から文久3年(1863)にかけては、龍野藩が、この地に所在していたことが資料で明らかになつています。味の素ビルの1階には、発掘調査跡や出土品が展示されていて、いつでも観ることが可能です。龍野藩は、播磨地方に所領があり、最初は姫路藩の池田氏が支配していました。元和3年(1617)、池田氏が鳥取に転封するにあたり、本多政朝が入封して、新たに龍野藩ができ、5万石の藩主となりました。その後かなりの大名家の交代があり、万治元年(1658)には、一時幕府の直轄領となります。寛文12年(1672)、脇坂安政が信濃飯田から入封し、再び龍野藩となりました。元禄14年(1701)、3月14日、江戸城において、有名な「殿中松の廊下事件」がおこります。勅使ご馳走役を務めていた播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩が、指南役の吉良上野介義央に、刃傷に及び、浅野内匠頭長矩は即日切腹、播州浅野家は断絶、吉良家はお構いなしという厳しい処分が下され、播州赤穂城は明け渡しということになります。同年、4月19日、日付・代官立会いのもと、「受城使」として龍野藩第2代目の藩主脇坂淡路守安照と足守藩主木下肥後守公定が赤穂城を受け取りました。浅野家旧領は龍野藩脇坂家が翌年11月3日まで在番し、石原新左衛門正氏・岡田庄太夫俊陳両代官の支配となりました。天保3年(1833)には、出石藩において「仙石騒動」が起こりますが、第8代藩主脇坂安薫は、寺社奉行を務めており、見事にこの騒動を裁き「名奉行」と評され、天保8年(1838)には老中になり、「天保の改革」に参画しました。第9代藩主脇坂安宅も、奏者番、寺社奉行、京都所司代、老中を歴任し、第10代藩主脇坂安斐(ゃすあゃ)のときに、明治維新を迎えました。
・・・「味の素」いろいろお世話になっています。
・・・「味の素ビル」の北側にありました。
◆小倉藩蔵屋敷跡「玉吉稲荷の祠」
北区中之島6-2-27中之島センタービル
江戸時代の中之島には多数の藩の蔵屋敷が立ち並んでいました。それら蔵屋敷の屋敷地を安らかに守るため、邸内に屋敷神ともいうべき祠が設置されていました。この玉吉稲荷の祠は、小倉藩の資料には出てきませんが、付近の見取図より小倉藩の邸内にあったと思われます。現在は、中之島センタービルの敷地庭内にあります。
※今回で「続・船場物語」を終了します。お付合いありがとうございました。