・・・「綿業会館」の中を少しのぞいてから、またまた近くにある村野藤吾さん設計の建物へ。
・・・途中、「大阪長谷ビル」や「敷島ビル」もあったりして、
◆1966「大阪長谷ビル」/設計:大阪建築事務所
541-0051大阪市中央区備後町3-2-8
https://www.hase-building.co.jp/
外付けマリオンによる垂直線を強調したアルミカーテンウォールの構成、建物の高さ、そして色調まで、西隣に建つ敷島ビルと大変よく調和が取れており、船場の他の街区ではみられない、ここだけのモダンな都市景観が形成されている。長谷ビルのほうがマリオンのピッチが広く、窓は開閉しないはめ殺し窓と縦軸に回転して開くのサッシの窓が横に並ぶ構成となっている。敷島ビルと同様に、1階はピロティにして駐車場を取り、右端に透明感のあるエントランスホールが設けられている。ピロティ端部の天井を斜めにすることで、より建物の浮遊感、軽快な印象を強調している。
◆1965「敷島ビル」/設計:日建設計
541-0051大阪市中央区備後町3-2-6
この時代としては大々的にアルミカーテンウォールを採用した事例で、垂直線を強調するH型のアルミマリオンの軽快なリズムと、純白の大きな壁面の構成・対比が大変美しいビルである。大きな壁にただひとつ穿たれた、抽象的な正方形の窓も効いている。カーテンウォール部分の窓は縦長の大きなガラスが開閉しないはめ殺し窓で、その下の小窓部分が内側に開くようになっている。船場の交通事情に配慮して1階に大きく駐車場を取り、建物全体が壁に支えられて浮いているようにみえるところも、モータリゼーション時代のビルらしくて魅力的である。正面右側の現在店舗が入っている部分もかつてはピロティで、マーメイドの屋外彫刻が展示されていた。
【番外】1960「輸出繊維会館」/設計:村野藤吾
541-0051大阪市中央区備後町3-4-9/06-6201-1671
村野藤吾さんが渡辺節建築設計事務所に勤めていた時代、その指示の下でデザインの多くを決定した綿業会館(重要文化財)は1931年に開館した。綿業会館の設計を終えた村野は、独立して大阪に自らの建築設計事務所を開設。1935年に御堂筋に全貌を現したそごう百貨店(現存せず)で世間の話題をさらい、1937年には宇部市渡辺翁記念会館(重要文化財)を完成させる。戦後の1954年には世界平和記念聖堂(重要文化財)を手がけるなど、押しも押されぬ建築家として、1984年に没するまで注目を集め続けた。戦前と戦後の間には15年ほど、鉄筋コンクリートなどの本格的な建築が建てられない空白があった。それが終わった時には、建築設計を依頼してくる人々の層も趣味も、様変わりしていた。建築家に求められるデザインは、他とは違うという威厳と自負の象徴となるような「様式建築」から、機能性や平等性を感じさせる「モダニズム建築」へと一変した。輸出繊維会館は、一見した派手さはない。しかよく見れば、壁のイタリア産トラバーチンとステンレスサッシの組み合わせ、西玄関のドーム状キャノピーなど随所にユニークさがちりばめられている。そして内部に入るやいなや、堂本印象デザイン(海中のイメージ)のモザイクタイル、繊細な階段の手摺りやオリジナルの家具などが、来館者を圧倒する。手法は綿業会館と共通性がありながらも、新しさや機能性、平等性といった時代の潮流をふまえている。
・・・このモザイクタイルは必見です。