【参考】船場の街並み
街区は基本的に40間四方の正方形で、街路は碁盤目状に直交している。大坂城の西に位置することから東西方向が竪(たて)となり、東西方向の街路を通(とおり)と称する。計23本。当初の幅員は4.3間に設定されていた。一方、南北方向は横(よこ)となり、南北方向の街路を筋(すじ)と称する。計13本。当初は補助的な街路とされたために幅員は3.3間と通に対して狭く設定されていた。町割りは基本的に通に沿った両側町で、東から丁目数にして5程度の町が多かった。ただし、西横堀筋は全て南北方向の横町割りで、渡辺筋や御霊筋にも横町割りが見られた。明治以降に通と筋の主従関係が逆転したが、東西方向の竪町割りは依然健在で、平成以降は竪町割りに統一されている。なお、現在の町名では「町」は全て「まち」と読む。
・・・南から、本町通・安土町通・備後町通そして瓦町通へと北上してきたことになります。さらに北へ「船場ビル」を巡っていきます。
【32】1925「船場ビルディング」/登録年月日:20000215
541-0047大阪市中央区淡路町2-5-8/06-6231-8531
http://www.e-cosmetics.co.jp/momoi/
設計:村上徹一(村上建築事務所)/二見恵美子(改装)
船場ビルディングは三休橋筋拡張を機に大正14年10月(1925年)に竣工致しました。
当時、オフィスと住宅をあわせもつ大変にユニークで革新的なビルとして注目を集め、同時に船場という所柄、装飾性のみでなく、トラックや荷馬車などを引き込むのに便利な機能性を重んじた設計が大きな特徴となっています。これはすでに今日でいうところの住環境を整え美化するという考えに至っていた欧米の手法をいち早く採り入れた桃谷政次郎翁をはじめとする経営首脳の先見性に依るもので、さらに船場という土地柄を考慮に入れ、船場ビルディング独自のスタイルをつくりあげたのです。
以来、船場ビルディングは数々の自然災害や戦争をくぐり抜け、大正時代の雰囲気を漂わせながらほぼ竣工時の姿のまま今日に至っています。地域文化と大阪文化のために、大阪船場淡路町の環境を形成するひとつの要素です。
【番外】1966「大阪毛織会館」
541-0047大阪市中央区淡路町2-6-10/06-6231-1300
間口いっぱいに水平連続窓を設け、袖壁でおさえる構成は間口型のパターンであるが、アゴのように突き出したバルコニー状のコンクリートが大きな特徴である。特に下から見上げるとコンクリートの塊が連続するようにみえ迫力がある。このようなコンクリートの量感を感じさせるデザインは、この時代に建てられたビルに時折みられるものである。
・・・ニッケ本社ビルも近くにありました。
・・・瓦町通を東へ東へ、
【33】1931「岸本瓦町邸」/登録年月日:19980902
大阪市中央区瓦町1-2-1
東横堀川筋大手橋の西詰正面に位置する。住友工作部の笹川慎一の設計によるもので,竜山石による外装など住友ビルとの類似性が認められる。外観意匠は抑制されているが,室内意匠は密度が高く,昭和期大阪財界人の邸宅建築を代表する作品とすることができる。鉄鋼商、岸本商店(文化年間の創業)の主である岸本吉衛門氏の本邸として建てられ、現在は岸本家関連の事務所として使用されている。