船場物語(15) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・錆色リングのオブジェ、そして、銀色に輝く「適塾と懐徳堂」未来をひらく4つの彫像は、とにかく目立ちます。「日本生命」の心意気でしょうか。さらに、関連のある場所を紹介していきましょう。


にっせ1

淀屋橋odona大阪市中央区今橋4-1-1

「三井住友海上大阪淀屋橋ビル」および「淀屋橋三井ビルディング低層階」(B1F~2F)から構成されている。2008年3月に竣工、5月に開業した。上層階はオフィス、低層階はショッピングゾーンである。これらの建築物は大阪市立愛日小学校跡地、記念碑が敷地西側に設置されている。

【参考】山片蟠桃

播磨国印南郡神爪村(現兵庫県高砂市)の農家に生まれる。13歳のとき大阪の伯父の養子となる。幼時から大阪の両替商である升屋に仕え、若くして番頭となり手腕を振るい、傾いていた経営を軌道に乗せた。大阪学問所懐徳堂に入門し、儒学者の中井竹山と弟の中井履軒に学んだ。1771年(明和8年)、24歳の時、番頭となり、商才を発揮して桝屋を繁盛させた。大阪市立愛日小学校の敷地は★山片蟠桃の屋敷跡である。1872年8月、「升屋」八代当主山片重明は小学校設立のため、大阪北浜にある自らの邸宅を、土地、家屋、建具ごと学校に寄贈した。


にっせ2


アイ・スポット(まちづくりの情報発信施設)

大阪市中央区今橋4-1-1淀屋橋odona2階06-4866-6803

http://www.odona.jp/index.html

http://www.city.osaka.lg.jp/toshikeikaku/page/0000018184.html

コーナーごとに大阪のまちづくりに関する情報展示、DVDの放映及びまちづくりに関するイベントなどを実施しています。展示内容(常設)アイ・スポットでは、旧愛日小学校の歴史、懐徳堂・適塾、大阪市の拠点開発、御堂筋彫刻、大阪市航空写真(昭和17年、平成19年)について展示しています。うめきた地区周辺市街地のジオラマ模型も展示しています。



にっせ3


・・・かの有名な「美々卯」です。


除痘館発祥の地

541-0045大阪市中央区道修町4-4-6「美々卯」本店別館06-6231-5770

http://www.mimiu.co.jp/

http://petceremo-famille.com/otasekizai/facilities.html

嘉永2年(1849)に緒方洪庵により大阪で最初の種痘が行われたのが古手町この碑の西隣の地である。除痘館は万延元年(1860)に適塾の南側に移転した。桜御影石の記念碑は、緒方洪庵の画像と種痘医・桑田立斎作成の引札の図版をあしらい、碑文は芝哲夫氏。記念碑の足元には、洪庵生誕地より採取した砂岩の自然石を添えている。


にっせ4

★大阪大学中之島センター

530-0005大阪市北区中之島4-3-5306-6444-2100

http://www.onc.osaka-u.ac.jp/

大阪大学は2001年に創立70周年を迎え、社会貢献の拠点として教育・研究、社会への情報発信、交流の機能を備えた中之島センターを、2004年4月大阪大学発祥の地「中之島」に開設いたしました

○2Fカフェテリアスコラ」適塾御膳

大阪大学の源流で、福澤諭吉などが学んだ「適塾」。福澤諭吉自伝「福翁自伝」を参考に、当時の塾生の食事をイメージし御膳仕立てにいたしました。

○1F情報・展示コーナー

重建懐徳堂(1916~1945)」の模型(ジオラマ)が展示されています。懐徳堂文庫資料の中に、その設計図面が残されていました。当時の設計・施工に当たられた竹中工務店により復元模型が制作されました。模型は、五十分の一サイズのもの一点、百分の一サイズのもの二点が制作されました。前者は大阪大学文学研究科の玄関に、また後者は大阪大学総合学術博物館待兼山修学館と★大阪大学中之島センターに展示されています。

中井桐園の嫡子であった中井天生(木菟麻呂)が大阪の財界や政界に働きかけ、大正5年(1916年)に懐徳堂を再建、区別して重建懐徳堂と呼ぶ。

懐徳堂沿革】

明治44年(1911)西村天囚らの発議により、懐徳堂記念会が設立される。

大正年(1916)大阪市東区豊後町(現・中央区本町橋)の府有地を無償で借り受け、重建懐徳堂を建立。

昭和20年(1945)大阪大空襲により講堂や事務棟を焼失。鉄筋コンクリート造りの書庫のみ罹災を免れる。

昭和24年(1949)蔵書と職員を大阪大学へ移管。

昭和28年(1953)書庫・事務所を処分。敷地を大阪府へ返還し、重建懐徳堂は消滅する。

平成11年(1999)大阪大学文学部内に懐徳堂センターを設置。

今橋学校

「懐徳堂」は、別名「今橋学校」とも呼ばれ、現在の中央区今橋丁目(旧尼崎町1丁目北側)にありました。碑は現在日本生命本社南壁面にありますが、昭和37年(1962)にビル新築に伴って移転、本来の「懐徳堂」校舎跡ではないうです。1806年 『増修改正摂州大坂地圖』の「尼崎町1丁目」に「校学」と記されていますが、ここが「懐徳堂」ではないかと思います。


にっせ5

三宅石庵

寛文5年(1665年)、京都三条通に町人儒者三宅六兵衛道悦と妻田中氏の間に生まれた。元禄初年、江戸で観瀾と私塾を開くも振るわず、元禄10年(1687年)単独で帰京後、讃岐国多度郡琴平の豪農羽屋木村平右衛門寸木に招聘され、儒学を教授した。元禄13年(1701年)、大坂尼崎町二丁目御霊筋(大阪府大阪市中央区今橋四丁目)で私塾を開く。正徳3年(1713年)8月、安土町二丁目北側に移転し、多松堂と号した。享保4年(1719年)8月、自身の資金で高麗橋三丁目苧屋三郎右衛門隠宅を借りて移転した。享保9年(1724年)3月、享保の大火で被災し、郊外平野の郷学含翠堂に避難、門弟への教授を続けた。同年5月には門弟によって尼崎町一丁目北側(今橋三丁目)道明寺屋吉左衛門(富永芳春)隠宅に懐徳堂が設立され、その学主に就任した。享保15年(1730年)死去。


・・・さて「重建懐徳堂」はどこにあったのか?

懐徳堂旧阯湯浅邦弘教授編著「懐徳堂事典」より

大正五年士人胥謀(あいはか)り東横堀川の上(ほとり)に重建し、古を参じ今を酌み弦誦復興せり。


・・・大阪市東区豊後町(現・中央区本町橋)の府有地、★東横堀川の上(ほとり)ということは、★「マイドームおおさか」なのです。

西町奉行所跡1724~1874

⇒大阪博物場(1875~1945)⇒重建懐徳堂(1916~1945)

http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009649.html

幕府直轄地の大坂では、老中支配の大坂町奉行が、警察・司法・行政の任にあたった。町奉行所は地理的位置により東西両奉行所がおかれ1カ月交代で執務した。西町奉行所は享保年(1724)の大火後当地に移った(それまで現大手前合同庁舎のところに東町奉行所と並んであった)最近現地発掘調査で、その規模が判明しつつある。維新後、奉行所には大阪府庁がおかれた。府庁は明治年江之子島へ移り、明治年(1875)以降、府立大阪博物場が置かれ、のち場内に美術館も開設されました。明治23年(1890)月、昭憲皇后(明治天皇の皇后)が博物場に行啓し、美術館を観覧し、明治24年(1891)11月には英照皇太后(孝明天皇の皇太后)も行啓、衣類・織物展を観覧しました。敷地面積約1万㎡の施設でしたが、北区空心町で起こった大火をきっかけに廃止決定されました。動物も収容されており、大阪市に無償で譲渡され、天王寺動物園が開園しました。


【参考】後々田寿徳大阪博物場楽園の盛衰」より

博物場は大阪府大阪市東区内本町橋詰町、現在の大阪市中央区本町橋二番地一帯に所在し、埜上衛らによる先行研究の多くは、明治期をとおしてその組織、施設などを拡張したが、大正前期に移転、解散あるいは廃止されたという。河原正彦は、博物場が主催したとする『昭和13年3月21日25日、第二回郷土陶磁器展覧会目録』の存在についてふれ、「少なくとも府立大阪博物場は昭和13年(1938)まで設立の地にあり、機能していたことを示している」とする。しかしながら管見では、先行研究でほかに当該期まで博物場が機能していたことを証するものはなく、その衰退期については判然としない。このたび、大阪府立中之島図書館所蔵資料などを調査したところ、博物場の衰退期についていくつかの新資料を得た。それらの結果、博物場は組織、施設などを縮小しつつ昭和201945)年の大阪大空襲によってほぼ焼失するまで、70年もの間この地に存在していたと思われる。とくにその所蔵品は同年まで散逸せず、この地に保管されていたものと考えられる。


・・・この際スッキリしたくて、文章ばっかりになってすいません。