【参考】旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会
http://www.jttk.zaq.ne.jp/bacas400/sanaboti/
公益財団法人真田山陸軍墓地維持会
http://www.sanadayama.or.jp/index.html
明治4年に設置されたこの真田山旧陸軍墓地は、全国で80箇所以上つくられた陸軍墓地の中でも最古の歴史を持ち、旧日本陸軍の歴史・文化を後世に伝える遺跡・遺物としても極めて貴重な存在となっています。平成7年より3年間に亘り、国立歴史民俗博物館による当墓地の墓碑を中心とした学術調査、また、平成22年より3年間に亘り、文部科学省の支援により専門学者グループによる納骨堂の調査が行われ、多くの貴重な事実が判明いたしました。このように学術的にも貴重な墓碑や納骨堂が、長い年月の経過とともに亀裂がいたるところに入り、特に5,100基以上ある墓碑は、剥離・崩落が進み、その多くがいつ崩落してもおかしくない状態にあります。当法人は昭和22年の創設以来、多くのボランティアの皆様に支えられながら、これら墓碑をはじめとする墓地の維持保存、慰霊祭の実施による、当墓地に埋葬・納骨せる戦没者の崇敬と世界の平和を祈念する思想の普及に寄与すべく活動しております。
◆三光神社 http://www.eonet.ne.jp/~sankou/
543-0013大阪市天王寺区玉造本町14-90/06-6761-0372
宰相山公園にあり、仁徳天皇・天照大神・月読命・素盞嗚命を祀る三光神社。社伝によれば、寛文元年(1661)に当社は南東方向にある鎌八幡の隣に移転されたが、その後宝永3年(1706)に再び現在地に戻ったという。古くは「日月山神社」とも、「姫山神社」とも呼ばれたらしい。明治11年(1908)に陸奥国青麻の三光宮の分霊を勧請・合祀したことから、「三光神社」と呼ばれ、今日に至っている。「三光さん」は中風封じの神として良く知られており、毎年6月1日から1週間の中風除け祈願の期間には、全国各地から参拝者がやってくる。また、境内は桜の名所としても知られるほか、大阪城と地下道でつながっていると伝えられる「真田の抜け穴」の跡がある。この抜け穴の脇には真田幸村の陣中での指揮姿の銅像が建っている。六文銭は、あの世に行くときに渡らなければならない三途の川の渡し舟の代金。いつでも、戦って死ぬ覚悟を表している。
○真田の抜け穴/大坂城の出城のあった処で慶長元和の大阪合戦の頃真田幸村が此の地に偃月城(えんげつじょう)と名付ける塁を定め。本城よりここに至るまで地下に暗道を設けた。と言い伝えられ、今なおその跡を三光宮鎮座の階下にあり。
○真田幸村の像/真田の抜け穴脇に真田幸村公の陣中指揮姿の銅像(イラストレータ成瀬國晴デザイン)を建立(昭和62年5月5日)、その台座に信州上田の真田家の菩提寺である長谷寺より取り出した石(名付けて真田石)が置かれている。
○第二次世界大戦の末期、昭和20年(1945)、米軍の爆撃で三光神社の社殿と周辺に住む氏子の家はすべて燃失した。その時、鳥居の片足のみ完全に残り、もう一方は上部を吹き飛ばされて基部のみが残る。片足の鳥居は戦争の悲惨さを忘れぬようまた永久の世界平和を祈念して保存してある。
【参考】真田幸村(1567~1615)の本名は「真田信繁」であるが、寛文12年(1672)に発行された軍記物語「難波戦記」で「真田幸村」と紹介され、これが有名になりその後は松代藩の史書のような公式歴史書にも幸村と書かれるようになった。明治になって、真田幸村の講談が流行り、これを本にして主に青少年向けに大阪の★立川文明堂が「立川文庫」を明治44年(1911)から大正14年(1924)まで「真田幸村」、「真田十勇士」、「猿飛佐助」等の立川文庫を出版した。超人的な「猿飛佐助」「霧隠歳蔵」などのフィクションがあたかも史実のように書かれ、大人気を博した。
・・・実際の戦いにおいては、適も味方もなく残虐な行為や怨念がうずまき、結果として何一つ美しい話などありはしない。すべての美談はフィクションである。しかし、そのような史実・歴史を繰り返し、今があることも事実であり、どのように「未来」への希望を培っていけるのかが重要だと考えている。そういう意味での「フィクション」や「芸術」でなければならないと思う。
私の「猿飛佐助」が、ようやく息を吹き返した。