・・・「心眼寺坂」この坂の頂上こそが、「真田丸」のあったところ。
◆心眼寺
543-0016大阪市天王寺区餌差町2-22/06-6764-0630
http://www.osaka-info.jp/jp/search/detail/sightseeing_5566.html
真田幸村とその子大助の供養の為に真田家の祖先滋野氏が江戸時代に建てた寺です。宰相山公園の西側にあり、心眼寺から南へはお寺が続いています。
★心眼寺に、真田幸村のお墓が建立されました。
昨年の2014年は大坂冬の陣400年。幸村は出城「真田丸」を心眼寺あたりにつくり、ここで徳川の大軍を相手に勝利をおさめました。その戦いからちょうど400年。お墓には「従五位下 真田左衛門佐豊臣信繁之墓」と記されています。心眼寺は元和8年(1622)白牟(はくむ)和尚が真田幸村と大助、父子の冥福を祈るために創建した堂舎。当時、大坂は江戸幕府の直轄地であったため、豊臣方の武将であった幸村父子の墓をつくることはできなかったようです。それが400年目にしてようやく。お墓は寺を入ってすぐあります。
◆興徳寺
543-0016大阪市天王寺区餌差町2-17/06-6761-7040
当山の縁起は聖徳太子が在世中に法円坂に「薬師院」として草創と伝えられるが詳細は不明。天平年間(729~49)行基菩薩によって再建された畿内49ヶ院の一つである。行基菩薩が原野を拓かんとして、この地で薬師如来を発掘して、別に木造を刻しこれを本尊として一宇を創建、「薬師院」とした。天文(1532~55)の兵火にあったが、天正年間(1573~92)に復興したという歴史がある。大阪夏の陣後、松平忠明が大阪の町の発展と城の防衛線の再整備のため、市内に分散していた寺院を、当時の小橋村、高津村、天満村の3ヶ所に集めたとき、小橋村の現在地に「興徳寺」と寺号を改め、再建した。1912年(大正元年)失火により本堂を焼失し、その後復興するも、太平洋戦争の空襲で山門以外の諸堂を焼失した。現在の堂宇は戦後の再建になるものである1989年(平成元年)建立の准胝(低)観音。10M以上あり、塀の外からでも拝むことができる。
【参考1】竹本弥太夫の墓
義太夫節の太夫。6代目(1866~1924))が没して以降長らく途絶えている。正字体:彌太夫。
【参考2】天王寺区餌差町
町名はここに藩主の鷹の餌(小鳥)を差し出す役目の「餌差」を置いたことに由来するという。
【参考3】真田山
1614年(慶長19年)大阪冬の陣の際、大阪城の弱点とされる南方面の防御を強化するため、大阪方の真田幸村が築いた出丸で、現明星学園付近にあったとする説や明星学園の東側にある宰相山や現在の真田山とする説があるが、江戸時代の古地図から見ても「圓珠庵」の東北、「明星学園付近」説がもっとも有力であると思われる。元禄年間(1688~1704)の「大坂三郷町絵図」では、『真田出丸跡』と記されているが、1752年(宝暦2年)版の「天王寺管内地図」及び1759年(宝暦9年)版の「摂州大坂画図」には『真田山』と見える。
◆真田山公園/543-0015大阪市天王寺区真田山町5-70
http://www.city.osaka.lg.jp/tennoji/page/0000000360.html
騎兵第四連隊のあった跡に昭和14年(1939年)に開設され、現在は天王寺スポーツセンター、真田山プール(冬季:アイススケートリンク)、野球場、テニスコートなどのスポーツ施設も整備されている。このあたりは大阪冬の陣(1614年)で★真田幸村が活躍した古戦場でもある。公園の北、三光神社の西側には、真田山旧陸軍墓地があり、公園の南東には法円坂の地名で知られる法円が建立したとされる浄照坊がある。
◆宰相山公園/大阪市天王寺区玉造本町14
慶長19年(1614)の大坂冬の陣の際に加賀宰相・前田利常(利家の庶子・三代加賀藩主)がこの付近に布陣したため「宰相山」と名付けられた。
◆真田山陸軍墓地
明治初めにわが国初の陸軍墓地として作られ、西南戦争、日清・日露戦争、太平洋戦争までの間に亡くなった陸軍関係者が多く葬られています。軍の階級に応じて同じ規格で整然と並べられた墓石は、背筋までシャンとする光景です。小さいものは兵卒や軍役の墓、大きいのは将校の墓ですが、日露戦争あたりから戦没者が多くなりすぎたために個人墓をやめて合葬墓になり、ついに太平洋戦争の頃には納骨堂になりました。現在では墓地全体、とくに崩れやすい砂岩で作られた小さい墓石の傷みが激しいということで、国史跡指定などの手法で保存を図るための活動が進められているようです。