スペイン村へ(5) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・お土産話編になります。まずは「しまかぜ」について、

「ブルーリボン賞」

「しまかぜ」専用車両である近鉄50000系が2014年のブルーリボン賞を受賞し、2014年9月20日に近鉄京都駅で同賞の授賞式典が行われました。全国の鉄道ファンが集まる団体「鉄道友の会」が1958年に制定したもので、その前年に営業運転を開始した新型車両や改造車両の中から会員が投票し、最も人気のあった車両に贈られます。今年の候補車両は12形式、その中にはJR九州の豪華寝台列車「ななつ星in九州」や、E6系新幹線「スーパーこまち」なども含まれていて、これら強豪を押しのけての受賞となりました(E6系新幹線はローレル賞を受賞)。近鉄では昭和22年から特急列車が運行されていますが、「しまかぜ」はこれら特急車両の集大成ともいえ、また車両機器はこれまで実績のある機器をベースにしながら観光輸送用に特化した数々の設備を取り入れるなど、「特急車両として本来あるべき姿を堅持した点を高く評価した」と、選考委員の方々は口を揃えていました。なお、近鉄はこれまでにも特急列車などで何度もブルーリボン賞を受賞しており、今回の受賞は2003年の21020系「アーバンライナーnext」以来、8回目の受賞となります。この日、近鉄京都駅で行われた授賞式には鉄道友の会の須田会長や、近鉄の小林社長が列席。大勢の鉄道ファンが見守る中、須田会長から小林社長に賞状が授与され、続いて鉄道友の会松田副会長から近鉄和田林副社長に記念の楯が贈られました。最後に車両の前でくす玉が割られ、記念式典は終了。その後「しまかぜ」は鉄道友の会会員120名を乗せた記念列車となり、宮津車庫で撮影会の後、奈良~上本町へと運行されました。ちなみに、近鉄奈良線では同日深夜に、八戸ノ里~瓢箪山間の上り線が高架線へ切り替えられたため、ここを「しまかぜ」が通過するのは最初で最後となりました。



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【参考】ローレル賞

鉄道友の会は、1958年にブルーリボン賞を制定し、翌1959年より会員による投票で同賞を選定していたが、華やかな特急用車両が選定されやすい傾向があった。そこで、1961年2月、ブルーリボン賞に選定され難い通勤形電車および近郊形電車を選定対象として、主に技術面で優秀な車両を評価するローレル賞が制定された。しかし、1970年代初頭より本来は特急用車両であるものが「通勤特急」と称して通勤列車に投入されるようになり、通勤車両の定義が曖昧になってきた。そこで、第15回ローレル賞からは対象を通勤形・近郊形車両に限定せず、ブルーリボン賞の選定候補車両でブルーリボン賞に選ばれなかった車両から、得票数に関わらずブルーリボン賞選考委員会が選定することとなった。近年では初期の通り技術面や先進性に優れた車両が選定される傾向にある。なお、ブルーリボン賞は年1形式のみの選定となっているが、ローレル賞については1形式のみという規定がないため、一度に複数形式が選定されることがある(現時点では第46回(2006年)の4形式が最多)。

・・・「鳥羽駅」で出会った、


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伊勢志摩ライナー赤色編成

http://www.kintetsu.co.jp/gyoumu/Express/train/ise-liner.html

リゾート特急23000系「伊勢志摩ライナー」は2012年8月、18年ぶりにリニューアル。伊勢志摩の太陽と陽射しを表現した、鮮やかな「赤色」と「黄色」の2種類のカラーリング、流れる風のようにリゾートへと向かうスタイリッシュなフォルム。ゆったりとしたシートで、ワイドな窓から伊勢志摩の景色をお楽しみいただけます。

・・・帰りの「鵜方駅」待合所で出会った、

◆海女萌えキャラクター「碧志摩メグ」

Maribon事業部(三重県志摩市公認萌えキャラ作成事務局)

510-0961三重県四日市市波木町218-3 ㈱マウスビーチ内059-320-3320

http://ama-megu.com/

・・・もちろんお土産は、これしかないでしょ。


◆赤福

http://www.akafuku.co.jp/contact/faq/#q_01_018

「赤福」の商品名の由来につきましては、創業の頃のことですので、確かな文献があるわけではありませんが、言い伝えによりますと、京都からおみえになったお茶の宗匠が、赤福の店でお休みになり、召し上がられたあんころ餅を大層よろこばれ「赤心慶福(せきしんけいふく)」のお言葉を頂戴しました。それを創業者である治兵衛がこれこそ餅の名にふさわしいと思い「赤心慶福」から二文字をいただき「赤福」と名づけたとされています。“赤心慶福”とは、伊勢神宮をお参りされる方々のお心を表した言葉で、「赤ん坊のようなうそいつわりないまごころを持って自分や他人の幸せを喜ぶ」という意味がございます。赤福ではこの言葉を社是とし、全従業員が心に刻み込んでいます。

お土産用の赤福餅は、竹皮でお包みしたのが始まりです。やがて七代目店主種助が、今の折箱の原型となる赤福餅の折詰を考案いたします。その後、明治40年に関西線と参宮線が国有になったのを機に亀山駅と山田駅で折詰した赤福餅の出張販売を始めました。およそ、100年前の出来事でございます。現在、折箱の包装紙には、子規と虚子の句を載せております。

●「到来の 赤福餅や 伊勢の春」 正岡子規

明治33年の春、病に臥しがちだった子規の下へ、お弟子さんが「赤福餅」を手土産にお見舞いにこられたそうです。それを見た子規は、かつて元気だった頃に伊勢に参宮したのも春であったこと、またその際立ち寄った店が「赤福」であったことを懐かしみ、伊勢の春を偲びつつこの句を詠んだと言われております。

●「旅は春 赤福餅の 店に立つ」 高浜虚子

昭和10年頃、虚子は私どもの店にお立ち寄りになりました。過日、病床にあった子規を伊勢の弟子が「赤福餅」を手土産に見舞われた際、子規が上記「到来の~」句を詠まれたことを懐かしみ、ありし日を偲ばれこの句を詠んだと言われております。



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【参考1】ほまれの赤福

赤福餅はただ『赤福』とだけ呼ばれることも多い。赤福餅は餅を“漉し餡”でくるんだあんころ餅で、その漉し餡には“五十鈴川の流れ”を象ったとされる三つの筋が刻まれている。赤福に使われている餅は、非常に柔らかくて崩れやすいので、パッケージに傾けて持ち帰らないようにという注意書きがされている。赤福は『伊勢参り(伊勢詣で)』のお土産として有名になったが、その起源となる餅屋(店舗)の創業年は、江戸中期の1707年(宝永4年)にまで遡る。その創業年の文献的根拠は、1708年(宝永5年)の市中軒の浮世草子『美景蒔絵松』にあり、伊勢古市の女が『(恋仲の男が)赤福とやら青福とやら云ふあたゝかな餅屋に聟に入り自分を見向きもしなくなってしまい、その裏切りがくやしうて泣いております』という自分を裏切った男に対する悲哀・悔しさの言葉を述べている。実際には、江戸時代の初期から、五十鈴川の畔には『赤福』という屋号の餅屋があったとも伝えられているが、形式上・文献上の創業年は1707年であり、初代の店主は浜田治兵衛とされる。初代から続いている赤福の浜田家は、現在の『株式会社赤福』においても創業家の社長一族として経営権を握っており、現在の代表取締役社長は11代目の浜田典保である。赤福が創業した初めの頃は、砂糖が貴重品・稀少品で手に入りにくかったため、塩味の辛い餡で餅を包んでいたというが、1727年に8代将軍・徳川吉宗がサトウキビの栽培・流通を奨励したことから、赤福に『黒砂糖餡』が使われることになったという。1911年(明治44年)に、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)が伊勢神宮を参拝したが、その時に伊勢名物の赤福餅の注文が行われた。赤福は灰汁の強い黒砂糖餡では皇后の好みに合わない恐れがあるとして、白砂糖餡で造った特製品の赤福餅を献上した。これが皇后に美味しいと好評であったため、一般の赤福餅を現在と同じ白砂糖餡で造られるようになったという。赤福は昭憲皇太后の注文を受けた5月19日を『ほまれの日』と定めて、包装紙に『ほまれの赤福』と記載していたが、2007年の偽装表示問題を受けて、『ほまれの』の記載は削除されることになった。

【参考2】赤福、突然のお家騒動

赤福は2014年4月23日、三重県伊勢市内で臨時株主総会を開き、濱田典保社長の事実上の解任を決めた。総会後の取締役会で、典保氏の母親、勝子氏が新社長に選ばれ、典保氏は代表権のない会長に退いた。典保氏の父親は2代目社長の益嗣氏である。2007年に赤福の製造日偽装が発覚し、10代目当主の益嗣氏は会長を辞任。以降、05年に社長に就任していた11代目当主の典保氏が、経営の全権を握ってきた。関係者によると、経営方針をめぐり益嗣氏と典保氏が対立し、典保氏は事実上、解任されたという。赤福は非上場企業で、益嗣氏が社長を務める濱田総業が発行済み株式の85%を握り、残りを益嗣氏と典保氏でほぼ二分してきた。1960年に慶応義塾大学経済学部を卒業した益嗣氏は、家業を継ぐため赤福の専務に就任。当時、従業員は94人、年商は8400万円だったが、益嗣氏は家内工業の域を出ない赤福を近代的な生産体制へと変身させた。売り上げを増やすためにテレビコマーシャルを始め、大量生産するために新しい工場を建設するなど経営の舵を大きく切った。これにより、赤福の年商は92億円(13年9月期)にまで拡大したが、家業を企業にした益嗣氏は、赤福の基礎を築いた祖母、濱田ます氏の経営に原点回帰することを考え、勝子氏を中心に家業型経営に戻そうとしていたという。そんな赤福が大きくブランドイメージを損なう事件が、創業300周年を迎える07年に発覚した。それが、消費期限の偽装事件である。同社は「まき直し」(売れ残り製品を包装し直し、消費期限を再設定)、「先付け」(遠隔地向けの包装紙に、翌日以降の製造日と消費期限を刻印)、「むき餅・むきあん」(店頭から回収した赤福餅を餅とあんに分離。むき餅は赤福餅に再加工し、むきあんは、あんとして関係会社に販売)などの偽装行為を行っていたのだ。同社内ではこれらの隠語が使われるほど日常的に偽装行為が行われていたのだ。

赤福の300年の歴史の中で、中興の祖といわれているのが、8代目当主の未亡人、濱田ます氏である。22歳で赤福8代目当主・濱田種三氏に嫁ぎ、48歳のとき夫が病死、その5年後には婿養子に迎えた9代目当主・濱田裕康氏が戦死した。残されたのは生後9カ月の益種氏(のちに益嗣に改名)。この時、ます氏は大黒柱となって働き、株式会社となった1954年に初代社長に就任した。ます氏は、赤福の経営理念を確立した人物でもある。午前2時に床を離れ、風呂で身を清め、仏前で読経。身支度を整えて本店に出るのが午前4時。店先にある三宝茶釜に火を入れ、客に出す茶を沸かす。午前5時になると赤福本店横の工場に従業員が出勤し、餅をつき、あんをつけ、折り詰めをつくる。ます氏が赤福の中興の祖と呼ばれる理由のひとつは、太平洋戦争の終戦前後の5年間、赤福餅の販売を中止した英断だ。戦中から戦後にかけて、砂糖と小豆が統制品となり、まともな原材料が手に入らなくなった。闇市に行けば質の劣る材料を買うことができたが、良質の餅米や砂糖、小豆は手に入らない。ます氏は販売中止の理由について「ヤミの原材料で餅をつくったら、赤福が赤福でなくなる。味がわかる人から、『これが赤福か』と笑われる」と語っている。閉店は44年から49年まで5年間にも及んだ。営業を再開するまで収入はゼロで、当時40人いた従業員には休業補償をして自宅待機してもらった。休業補償に充てる金を得るために、濱田家が所有していた別荘など、土地・建物を売り払った。店を閉じている間に、赤福の類似品を出す店が14店も乱立した。ほとんどの店は砂糖が手に入らないのでサッカリンを使っていたが、ますは餅米や小豆、砂糖の原産地にこだわり、本物が手に入るようになるまで決して赤福餅をつくらなかったことで、味を落とさず、赤福の品質を守った。そのます氏をモデルにしたテレビドラマ『赤福のれん』(フジテレビ系)が75年に放映され反響を呼んだことが、赤福餅が全国ブランドになるきっかけとなった。その赤福のブランドが、消費期限の偽装発覚から7年たった今、再び大きく毀損しかねない事態に陥っている。

【参考3】お福餅

「餅と漉し餡の組み合わせ」はポピュラーなものであって、一時期はそれを販売する多くの商店がこの地域に存在していたが、現在まで大きく展開するもので残ったのが赤福餅と御福餅であったといえる。「御福」の名は、二見興玉神社(夫婦岩がある)にある天の岩屋に祀られる神のアマノウズメノミコト(天鈿女命)の通称が「御福さん」である事に因む。なお餅の形は赤福餅と類似しているが、赤福餅が「五十鈴川の清流」を表現しているのに対して、御福餅は「二見浦の波の形」を表現している。また、桃色を基調にするパッケージの色調もそっくりであったが、かつては赤福餅と御福餅のいずれのパッケージにも擬宝珠のついた和橋の図案が描かれている点が共通しており、デザイン上もそっくりであった。赤福餅の和橋は皇大神宮(内宮)の参道口にある宇治橋であり、御福餅の橋は二見興玉神社境内にある橋であった。かつての御福餅のパッケージの方にはそれに加えておかめの面の図案が描かれていた点が相違点であった。一方の赤福餅には、伊勢神宮の神殿の図案が加えられている他、パッケージ裏側には俳句が印刷されているため、識別が可能である。2011年にパッケージに書かれている商品名が「御福餅」から「お福餅」に変更され、その年の秋からはデザインも赤福と酷似した和橋のデザインから、夫婦岩の後の富士山から朝日が出ている図柄で、カラー印刷に変更された。ただ、あまりに大きな外観の変更だったためか、2012年には夫婦岩の後の富士山から朝日が出ている図柄のまま、元の桃色を基調とする色調に戻された。それでも、赤福のデザインとの見た目は以前よりもかなり変化が出ている。

赤福は、赤福本店で作られているごく僅かの赤福餅以外の製造は工場で機械化されているが、御福餅は生産量の違いもあり、現在でも手造りである。なお、『赤福のれん』(原作:花登筺)にて、御福をモデルにしたと思われる「おか福」との葛藤が女一代記としてテレビドラマ化(主演・赤福社長:十朱幸代、おか福社長:藤岡琢也)されている。作品前半ではライバル関係に描かれているが、後におか福が苦境に立つと援助するなど協力関係でもある。ちなみに「おか福」以外に「赤もち」なるものも登場する。

・・・帰りの電車は、ビスタカーですが、なんと「つどい」を発見。


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◆観光列車「つどい」

http://www.kintetsu.co.jp/senden/tsudoi/

○座席とテーブルを窓向きに配置。沿線の景色を楽しみながら飲食可能。また、特産品や観光名所、歴史などの伊勢志摩にまつわる80種類の情報を、各座席の背面とテーブルの上部にイラストで表現。

○運転台の後ろに「こども運転台」を設置。運転台を通して前方の景色を見ながら運転操作を楽しみ、運転士気分を味わえる。お子様の運転操作と連動してメーターや表示灯が点灯する。また、子供用の制服を用意。記念撮影も可能。

○車内に風が吹きぬけるスペース「風のあそびば」を設置。扉部分には、スリットと床面までの大型ガラスを設置し、スリットから入る爽やかな風を感じながら景色を楽しめる。カラフルで様々な形のイスを配し、賑やかな楽しい車内とした。

○バーカウンターやテーブルを備えたイベントスペースの設置。バーカウンターでは一品のふるまい、飲料やおつまみの販売を実施。物販テーブルでは伊勢志摩の特産品を販売する。

「イベントスペース」において、志摩市、志摩市観光協会、志摩市商工会が、鳥羽駅―鵜方駅間で、「伊勢えび」「的矢かき」などの志摩地域の食材を使用した一品のふるまいや、伊勢志摩の特産品の販売を行う。
このほか、運行期間中の一部の日程において、三世代海女の中川静香さんやご当地キャラクターとの記念撮影会、伊勢志摩の特産品をプレゼントするゲームなど様々な特別イベントの実施を予定。


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◆ビスタEX

http://www.kintetsu.co.jp/gyoumu/Express/train/bisuta.html#bisuta

1978年、近鉄特急のシンボルである「2階建電車」ビスタカー3世として誕生。1編成4両のうち、中2両が2階建てのビスタカー。2階建て車両には、窓を拡大し展望性をアップした2階席、個室サロン風の階下席があり、くつろぎの空間を作り出しています。1979(昭和54)年、ブルーリボン賞を受賞。人気の高い階上席は側窓に曲面ガラスを用いて高さを拡大し、椅子のシートピッチを広げました。階下席は出入台両側に配置されサロン風小客室を用意致しました。階段出入台部分は階上席天井高さまで吹き抜け構造として、独特の空間をつくり出しています。階下席は、名様以上のグループの方への専用席として発売しています。


・・・3名様以上なので階下2席を貸切って、余裕で帰路につきました。「しまかぜ」も「ビスタEX」も快適で良い旅ができました。長い土産話にお付き合いいただき、ありがとうございました。皆様が「伊勢志摩」に行かれる際の参考(薀蓄)になれば幸いです。