天王寺七坂(9) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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安居神社・真田幸村戦死跡碑

http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009754.html  

境内に真田幸村戦死跡碑がある。大坂夏の陣(元和元年-1615)のとき、茶臼山に布陣した幸村は、徳川家康の本陣を急襲、窮地に陥れたが戦い利あらずついにここで戦死したという。


いっし1  


【参考1】2009年8月5日朝日新聞

1615年5月7日、大坂夏の陣。すでに豊臣方の敗色は濃厚のなか、安居神社の南の茶臼山に陣取った幸村は、さらに南の徳川家康本陣を激しい突撃で混乱に陥れ、あと一歩まで追いつめる。だが、家康方の増援に阻まれ、ついには退却を余儀なくされる。そして安居神社で腰を下ろして休息しているところを、徳川方の越前兵、西尾仁左衛門に討ち取られた。後の越前藩の「首帳」で確認できる。しかし、今日の幸村の人気は何と言ってもその後の講談や軍記物語による。講談「難波戦記」では、幸村も主君の豊臣秀頼も夏の陣で死なずに薩摩に逃げ延びるし、大坂で口伝えされた別の講談にいたっては家康が倒されてしまう。明治から大正には、忍者猿飛佐助や霧隠才蔵ら「真田十勇士」が活躍する立川文庫が大ヒットする。「講談の世界での人気は3本の指に入る主人公です」というのは講談師の旭堂南海さん。計略を駆使する冷静な軍師として語られるから、主役だがあまり張り扇をパンパンたたかない。負けるのが分かって豊臣方について忠義を尽くしたところが、大阪人の判官びいきの心をくすぐる。「弱かった時の阪神タイガースが好きなのと一緒」と南海さん。同じ豊臣方の石田三成が人望のない陰謀家で、その人望のなさが敗因として語られるのとは対照的だ。幸村人気は江戸を首都にした家康のアンチテーゼでもある。南海さんの師匠、故・3代目旭堂南陵さんは、大阪の衰退も阪神が弱いのも全部家康のせいにしてしまう「家康をののしる会」を開いて評判になった。大阪城で月1度ごみ拾いをしているNPO法人大阪城甲冑隊は、鎧から兜まで赤で統一した幸村の「赤備え」を身につける。03年から大阪城天守閣で開かれるボール紙で甲冑を作る教室の修了者が、「多くの戦死者の上にごみが落ちているのが許せない」と始めた。甲冑隊の理事長を務める河井計実(かずみ)さん(47)は、衣装を赤備えにした理由を、「幸村は自分ができることをきちんと貫いた人。みんなが共感できる。大阪城と言えば真田と自然に決まった」と話す。安居神社は毎年5月、幸村の慰霊をしている。近年の戦国武将ブームで参拝者が増えたこともあり、今冬には幸村の銅像を建てる。兜を脱ぎ、刀を置いて座る最期の姿。覚悟を決め、家族や豊臣家に思いをはせているという。


いっし2  


【参考2】立川文庫

大正期に大阪の出版元立川文明堂(大阪市南区安堂寺橋通周辺にあった)より出版された、「書き講談」による青少年向けの文庫本シリーズ。「立川文明堂」(は1904年創業、立川文庫は1911年(明治44年)1923年(大正12年)の間に200数十篇が刊行され、『猿飛佐助』、『霧隠才蔵』等で知られる

【参考3】真田十勇士

「ヒーローとしての真田幸村」の登場は、寛文12年(1672年)に書かれた軍記物『難波戦記』である。元禄期には小説『真田三代記』が成立し、真田昌幸・幸村・大助の三代が徳川家に対して奮戦するストーリーが人気を博した。この『真田三代記』において猿飛佐助と望月六郎をのぞく8人の原型が登場し(筧十蔵、霧隠才蔵の元になったと思われる筧十兵衛、霧隠鹿右衛門が記載されている)、「真田もの」の講談の流行によって、真田主従は民衆のヒーローとなった。明治後期の講談は神田伯龍『難波戦記』(1899年)などの口演速記本が書き残されている。講談師たちは『真田三代記』にはない忍術つかいの「猿飛佐助」を生み出し、「霧隠才蔵」ら真田家の英雄豪傑の物語を膨らませていった。1911年に大阪で発刊された立川文庫は、講談師玉田玉秀斎らが中心となって講談を読み物として再編集したもので、その後の大衆文学に大きな影響を与えた


いっし3

★逢坂

http://www.city.osaka.lg.jp/tennoji/page/0000000499.html  

道路(坂)としての逢坂は、天王寺区逢阪1丁目の「天王寺公園北口交差点」から四天王寺1丁目の「四天王寺交差点」にかけて東西にのびている坂で、現在の国道25号そのものである。東側(四天王寺)の標高が高くなっている。西側は松屋町筋、東側は谷町筋につながっている。平安時代の頃には、坂の上り口にあたる現在の天王寺公園北口交差点あたりまで海であり、このあたりは「合法ヶ辻」と呼ばれ、のちに浄瑠璃『摂州合邦辻』の舞台ともなった。近代以前は馬車馬が音をあげるほど急な坂だったと伝えられ、道も狭く、事故多発地点だった。明治9年(1876年)に茶臼山観音寺の住職が寄付を集めて坂を切り崩して緩やかにする工事を行った。明治時代末期に大阪市電の第三期線建設に伴い、道路が拡張されてほぼ現在の姿になった。逢坂は、逢坂の関になぞらえてよんだものとも、他説では聖徳太子と物部守屋の二人が信じる方法を比べ合わせたと言われた「合法四会」(がっぽうがつじ)に近いことにより合坂(おうさか)と名付けられたなどの諸説がある。



合法ヶ辻(合邦辻)


明治3年逢坂拡張初めの石碑が合法ヶ辻に建っています。聖徳太子と物部守屋が仏法を論じ合い、法を比べ合わせた場所だといわれています。


いっし4  


◆一心寺

543-0062大阪市天王寺区逢阪2丁目8-6906-6771-0444

http://www.isshinji.or.jp/index.html  

1185年(文治元年)の春、四天王寺の別当であった慈円の要請によって、法然が四天王寺の西門の坂のほとりに、四間四面の草庵を結び、「荒陵の新別所」後に「源空庵」と称して住んだという。後白河法皇が四天王寺参詣の際に訪れて法然と共に日想観を修した。当時草庵の西は海を遠く見渡せ、極楽浄土の瑠璃の地のようであったという。1596年(慶長元年)、三河の僧侶であった本誉存牟上人が法然の旧跡であるこの地で一千日の念仏修法を行い、寺を再興した。彼の一心称名をもって寺ができたため、一心寺という名になったといわれる。家康は、境内の坂の孤松のすがたを讃えて、「坂松山」の寺額を贈った。大坂冬の陣・大坂夏の陣では徳川家康の陣が茶臼山に隣接したこの寺に置かれている。この寺には大坂夏の陣の天王寺・岡山の戦いで最前線に立ち討ち死にした本多忠朝の墓所があるが、彼は酒を飲んでいたため冬の陣で敗退し家康に叱責され、見返そうと夏の陣で奮戦したが討ち死にし、死の間際に「戒むべきは酒なり」と言い残したといわれることから「酒封じの神」とされるようになった。今でも墓所には禁酒を誓う人がよく詣でている。小堀遠州好みの数奇屋「八窓の茶室」や、大坂城の三の丸玉造門を移設した「黒門」と呼ばれた大きな山門も有名であったが、大阪大空襲ですべて焼失した。戦後伽藍の再建と10年毎の骨仏作りが徐々に進んだが、特に建築家でもある現長老(高口恭行)の作った鉄とコンクリートの斬新な山門(1997年(平成9年)完成。彫刻家・神戸峰男による阿形像・吽形像や、日本画家・秋野不矩による天女像がある)や、庫裏・信徒会館である日想殿(1977年(昭和52年)完成)など現代建築による施設も見所の一つである。


いっし5  


◆料亭「天王殿」 http://www.tennouden.com/

537-0062大阪市天王寺区逢阪2-8-5206-6771-6010

大阪・天王寺に壮麗な建物で威容を誇る、創業60余年の老舗「料亭 天王殿」。茶臼山の裾野が続く広大な敷地と閑静な環境に恵まれ、都会の喧騒とは一線を画した別天地が広がる。重厚な門構えから玄関へ続く、アプローチも秀逸。池を配した庭園には、桜・つつじ・紫陽花・紅葉など、四季を彩る花木が客人の心癒す。庭園の眺めを楽しめる大小12室の個室で堪能する、料亭自慢の会席料理や鍋料理。贅を尽くした一席が叶うだろう。



玉手水旧跡/大阪市天王寺区逢坂2-8

http://www.city.osaka.lg.jp/tennoji/page/0000070756.html  

玉手の水は、かつては一心寺の西に位置し、天王寺の高台からしたたり来る水であったといわれています。現在は井戸の跡形もなく、完全に枯れ果てており、所在地も不明のまま。安居神社から逢坂を横切って歩くと、児童福祉施設四恩学園の門付近に「玉手水旧跡」と刻まれた自然石の碑があるのみです。なお、伶人町に建つ清水寺の玉出の滝とは別ものです。