天王寺七坂(7) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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愛染堂勝鬘院

543-0075大阪市天王寺区夕陽ヶ丘町5-3606-6779-5800

http://www.aizendo.com/


あい1


勝鬘院(しょうまんいん)の「鬘」は「かつら」で漢字変換できます

地下鉄谷町線四天王寺前夕陽ヶ丘駅から徒歩2分、四天王寺の四箇院のひとつである「施薬院」として推古天皇元年(593)に、聖徳太子によって建立された。施薬院とは、仏教の教えによって設けられたもので、薬草を栽培し、あまねく人々に病に応じてそれを与える福祉施設だった。後に聖徳太子が勝鬘経を人々に講ぜられ、経に登場するシュリーマーラー夫人(勝鬘夫人)の仏像を本堂に祀ったことから、当院は「勝鬘院(しょうまんいんあいぜんどう)」と呼ばれるようになった。また金堂には本尊として、良縁成就・夫婦和合で有名な愛染明王が奉安されていることから、「愛染堂」としても親しまれている。境内には、豊臣秀吉が再建した桃山時代の代表作である、多宝塔(国の重要文化財)のほか、飲むと愛が叶うといわれる「愛染めの霊水」があり、若い女性に人気だ。毎年6月30日、7月1・2日には、大阪の三大夏祭りのひとつとして有名な愛染祭が行われる。


あい2


◆大江神社

543-0075大阪市天王寺区夕陽丘町5-4006-6779-8554

http://www.ooejinja.net/

当大江神社は、上之宮、小儀、土塔、河堀、堀越、久保の各社と共に★「天王寺七宮と云われ、四天王寺の鎮守として聖徳太子が祀られたものと伝えられています。当社は、天王寺北村の産土神で豊受大神を祭祀しています。いつの頃よりか神仏を混淆して毘沙門天を祀り、乾の社と称して四天王寺の所管となり、境内に神宮寺を建て祭祀も僧徒(四天王寺東光院神宮寺の別当)が当っていましたが、明治維新後神仏が分離され、慶應三年今の社名に改められました。社名は大江岸に続いた社地であったところから大江神社となりました。明治四年郷社に列せられ、明治四十年、大道一丁目字土塔の村社、土塔神社(祭神素戔嗚尊)、上之宮町字上之宮の村社、上之宮神社(祭神欽明天皇、相殿に大己貴命、少彦名命)、東区安土町二丁目の無格社、男山八幡神社(祭神応神天皇)、同四十一年、勝山通一丁目字小儀の村社、小儀神社(祭神素戔嗚尊)を合祀しました。先の戦争にて絵馬堂と神器庫を残しすべて焼失しましたが、昭和三十八年、氏子崇敬者により本殿、拝殿が復興されました。千八百坪の広い境内には約百三十本もの榎木、楠木等の樹木が覆い繁り、大阪市の保存樹林の指定を受けています。


あい3


境内奥に鎮座する狛虎は江戸時代に祀られていた毘沙門天の守護で、明治の神仏分離で「吽形」が滋賀に移され、残った「阿形」も大阪大空襲で焼夷弾を受け、耳がとれ歯も欠けてしまいました。そこで平成十五年八月、地元有志が「狛虎を一対にしたら優勝するのでは」と「吽形」の狛虎をつくり、そしてその年、阪神タイガースは十八年ぶりに優勝しました。マスコミにも大きく取り上げられ、今ではタイガースの守り神として、多くのファンがお参りされています。

【夕陽岡】

嘉禎2年(1236年)に歌人・藤原家隆が、浄土教の教えである「日想観」を修するためにこの地に移り住んで終の地とし、住居として『夕陽庵』(せきようあん)を設けたことが夕陽丘の地名の由来とされる。かつては大阪湾に落ちる夕日を眺める絶好の地であり、大江神社、新清水寺、四天王寺西門辺りが有名だった。現在の夕陽丘町と六万体町には「天王寺寺町」、生玉町と生玉寺町には東側に「生玉中寺町」、西側に「生玉寺町」といった寺町が形成された。幕末の国学者・伊達宗広は藤原家隆を敬愛しており、明治初期にこの地に「自在庵」を建てて居とし、この地を「夕日岡」と命名した。しかし明治5年に体調を崩して東京に移り住んだ。明治10年に宗広が死去した際、遺言により家隆塚の近くに埋葬された。のちに実子の陸奥宗光ら一族9名もこの地に埋葬された。(昭和28年に宗広や陸奥家一族は鎌倉・寿福寺境内に改葬)夕日岡(とくに狭義)の地名はのちに南区天王寺大字天王寺字夕陽丘→南区天王寺夕陽丘町→現在の地名へと変わっている。太平洋戦争による空襲で一帯は焼け野原となったが、昭和23年に上町台地上で開催された復興博覧会を期に復興、母子関係の施設が多く設置された。2009年に大阪市は「上町台地マイルドHOPEゾーン事業」の一環として、家隆塚(伝藤原家隆墓)を「夕陽を見る場」として再整備し、5月29日に記念講演会が行われた。


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★愛染坂

http://www.city.osaka.lg.jp/tennoji/page/0000000506.html

その名のとおり、坂の下り口ある愛染堂勝鬘院から名付けられた。愛染さんの夏祭り(六月三十日)は大阪夏祭りの先駆けとして知られ、境内の多宝塔は市内最古(文禄三年)の建造物で、重要文化財と指定されている。大江神社には「夕陽岡」の碑があり、このあたりからの夕焼けは今も美しい。

◆料亭「浮瀬亭」跡

江戸時代には大坂を代表する料亭浮瀬亭(うかむせてい)がありました。当時の名所案内書「摂津名所図会」や「浪華の賑ひ」にも紹介され松尾芭蕉のほか、与謝蕪村、太田南畝、滝沢馬琴などの文人たちが訪れたそうです。もとは晴々亭という名前だったうですが種々の奇盃を所蔵しており、中でも「浮瀬」という盃が有名になりいつしか料亭もその名で呼ばれるようになったうです。鮑(あわび)の11の穴を塞いだ不思議な杯で、七合半の酒を盛ることができ、飲み干せば名簿に名前をとどめる名誉を得たといいます。与謝蕪村、滝沢馬琴、松尾芭蕉なども訪れこの盃について記しているそうです。料亭「浮瀬」は、1887年(明治20)頃売却されたようですが、いつ姿を消したかは詳しくわかっていません。


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【参考】大阪星光学院中学校・高等学校

543-0061大阪市天王寺区伶人町1-606-6771-0737

http://www.osakaseiko.ac.jp/

1950(昭和25)年に創立されたカトリックのサレジオ修道会が運営する中高一貫の男子校です。。学校長は初代から現在に至るまで全員神父が受け持っており、近年では約半数の生徒が東大・京大・阪大・国公立大学医学部に進学するなど、優秀な生徒を輩出する学校としても有名です。学校敷地内にある「浮瀬亭」跡は、1983年に★蕉蕪園として整備され、句碑などもあります。「浮瀬亭は、芭蕉最晩年の句が発表された場所であり、その後病臥に伏し、御堂筋の花屋仁左衛門邸で息を引き取りました


・・・機会があれば見学させていただきたいものです。