★口縄坂
http://www.osaka-info.jp/jp/search/detail/sightseeing_5295.html
「口縄」とは大阪の古い言葉で「蛇」のことであり、坂の下から道を眺めると、起伏が蛇に似ていることからそう呼ばれるようになったとされている。周囲は小さな仏教寺院が多数ひしめいている。坂を登りきった場所の北側にある梅旧院には松尾芭蕉の供養塔がある。
◆善龍寺
543-0076大阪市天王寺区下寺町2-1-17/06-6779-9354
慶長7年(1602年)開創の名刹。大阪大空襲で山門を残して全焼。もともと松屋町筋沿いにあったが1972年に再建。現在の口縄坂中ほどに移動。海中出現地蔵尊が有名です。夕陽丘を下り、松屋町筋あたりから西は昔は海だったということです。
◆大阪府立夕陽丘高等女学校跡碑
女学校がここにあったのは1908~1934年まで、現在の大阪府立夕陽丘高等学校の前身です。1906年3月9日に大阪府立島之内高等女学校として設立が認可された。大阪市南区千年町(現・大阪市中央区東心斎橋2丁目)にあった大阪市立第二高等女学校の元校舎(もとは大阪市立千年小学校(大阪市立大宝小学校分校)の元校舎)を利用して仮校舎を設置し、1906年4月25日に第1回入学式が実施された。1908年11月には大阪市南区天王寺夕陽丘町(現・大阪市天王寺区夕陽丘町)の校舎に移転した。移転直後の1909年1月18日付で、移転先の地名をとった大阪府立夕陽丘高等女学校へと改称している。
【参考】織田作之助「木の都」より
「ただ口縄坂の中腹に夕陽丘女学校があることに、年少多感の胸をひそかに燃やしていたのである。夕暮わけもなく坂の上に佇んでいた私の顔が、坂を上って来る制服のひとをみて、夕陽を浴びたようにぱっと赧くなったことも、今はなつかしい想い出である。」
・・・さらに上ると、左右の石柱に「楽天地北横」「八島洋食店」の字が刻まれた地蔵堂があります。その昔、千日前にあった「楽天地」とかかわりをもつものだと思いますが、詳細不明です。そして、坂上の南側に織田作之助の文学碑があり、彼の著書である『木の都』の一節が刻まれています。織田作之助が七坂の内、一番愛した坂でもあり、大阪市が昭和55年(1980)に建立した「文学碑」の第一号です。
【碑文】
http://www.city.osaka.lg.jp/keizaisenryaku/page/0000058596.html
口縄坂は寒々と木が枯れて、白い風が走つていた。私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を登り降りすることも当分あるまいと思つた。青春の回想の甘さは終り、新しい現実が私に向き直つて来たように思われた。風は木の梢にはげしく突つ掛つていた。
◆珊瑚寺
543-0075大阪市天王寺区夕陽丘町1-21/06-6779-9180
豊臣家の重臣・桑山重晴(1524~1606)が、秀吉の武運長久を願って建てたのが珊瑚寺のはじまりとのことです。重晴は朝鮮出兵の際に朝鮮より持ち帰った小児薬を「桑山丸子」の名で売り出したところ評判がよく、後に近松門左衛門の「心中天網島」で、子どもに「くわやま」を飲ませるようにとあるように有名になり、「桑山丸子」は大正時代頃まで製造されていました。
・・・道のむこうに見えるのが、
◆天鷲寺 http://www.tenjyuji.jp/index.html
543-0074大阪市天王寺区六万体町3-18/06-6771-4519
今から1200年の昔、平安時代延暦24年(805年)7月に天台宗宗祖『傳教大師最澄』によって開創されたこのお寺は、『傳教大師入唐求法帰朝記念のお寺』としてその由緒と格式を現在に伝えている。
・・・ここまで来たら「谷町筋」を越えて、
◆吉祥寺
543-0074大阪市天王寺区六万体町1-20/06-6771-4451
http://www.osaka-info.jp/jp/search/detail/sightseeing_5289.html
寛永7年(1630)に創建。道元禅師を祖とする。江戸時代、赤穂浅野家の祈願所として、藩主の長矩(ながのり)は江戸参勤の途中、必ずこの寺に立ち寄って休息した。当時の住職で赤穂出身の縦鎌(じゅうけん)は長矩とも親交があり、赤穂浪士の墓を建ててその霊を弔ったと伝えられる。墓の中には、遺髪、遺爪、鎖帷子が安置されて、墓碑周辺に桜の木が植えられた。このことから今も「義士の寺」として親しまれている。討ち入りの日に当たる12月14日は毎年、法要や奉納剣道試合、子どもたちによる四十七義士時代行列などが行なわれる。名物「討入そば」の接待も。地下鉄谷町線四天王寺前夕陽ケ丘駅から歩いて約3分。
【参考】六万体
http://www.city.osaka.lg.jp/tennoji/page/0000046034.html
大阪市天王寺区の「六万体」は、戦争や合戦で6万体死んだから六万体と名付けられたという説。四天王寺別院「真光院」とこの周辺の土中には、聖徳太子が父用明天皇の菩提を弔うために作ったといわれる六万体のお地蔵さまが埋まっていると説。しかし、聖徳太子の時代には「地蔵信仰」はまだ無かった。
543-0075大阪市天王寺区夕陽丘町1-1/06-6779-9133
江戸時代の文献『摂津名所図会大成』★木村兼葭堂著に「虚空蔵堂 太平寺にあり 虚空蔵菩薩を安ず 参詣間断なし 別けて三月十三日は十三歳の童子群参して智福を祈る これを十三参といふ」と記され、太平寺が「十三まいりのお寺」として多くの人々に親しまれ、信仰を集めていた様子がわかります。また境内には北山不動明王・祗空翁文塚などが祀られ、おおさか十三仏霊場第十三番・大阪四不動南方霊場として、四季の花々の間に歴史のひとこまを伝えています。太平寺は★加賀藩大坂蔵屋敷の菩提所でした。廃藩置県の際に蔵屋敷内にあった前田家(本姓菅原氏)の先祖道真公を祀る天神宮を寺に移したのです。しかし立派な神殿や拝殿は、歴代藩主の見事な位牌とともに昭和20年の戦災で焼失しました。神社を寺に持ち込んで、現在の本殿の前で石の鳥居だけが残っています。
・・・さあ、残している坂に急ぎましょう。