天王寺七坂(5) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「高津宮」の鳥居前にあるのが、



ふど1


高津山「報恩院」

542-0072大阪市中央区高津1丁目2-2806-6761-0543

真言宗醍醐派の仏教寺院。良遍上人が大阪の上町台地の佳き地を選び、現世利益の不動明王の世相にあった北向不動明王を造立したことが、始まりと伝えられている。また、北向不動明王と同時期に植えられたという樟は、相生の樟として有名で、戦前までは、繁茂していたという。商売繁盛と家内安全の所願成就のご利益を求め、多くの人々で報恩院は香煙の絶え間がなかったという。明治に入って、廃仏毀釈により、報恩院は無住に近い状態になり荒れ寺になり、報恩院第12世の孝教和上が明治・大正にかけて中興した。しかし、太平洋戦争による大阪大空襲で、北向不動尊を残して灰燼に帰した。被災後わずか数日が立ったぐらいから、住職・壇信徒により焼跡整理が始まった。その後、諸堂の再建がなった。


・・・「齢延寺」と「銀山寺」の間を西へ入ると、

◆齢延寺

543-0071大阪市天王寺区生玉町13-3106-6772-0065

http://www.osaka-info.jp/jp/search/detail/sightseeing_5298.html

もともとは元和9年(1620)僧義春によって曹洞宗の寺として真田山に開創され、1623年にいまの場所、減聖寺坂を上がってすぐ左手のところへ移転。志摩国領主稲葉家の菩提寺でもあった。江戸時代は「齢延寺の彼岸桜」と呼ばれた桜の名所で、いまも大樹古墓の多い風格のある寺として知られる。境内には、幕末に私塾・泊園書院を興して活躍した儒者の藤澤東咳・南岳父子や、画家の鍋井克之、名刀鍛冶師の左行秀の墓がある。また、御方洪庵、斉藤方策と並ぶなにわの3名医のひとり・原老柳ゆかりの老柳観音には、病気平癒を願って訪れる参拝者が多い。

◆銀山寺

543-0073大阪市天王寺区生玉寺町6-2606-6771-2702

天正19年(1591)豊臣秀吉の城下町建設の一環として寺町が建設される中、現在地に光明寺第24世住職・縁譽上人休岸によって創建された寺。当初は「大福寺」と称したが、秀吉が中国の金山寺に劣らぬとして寺号を「銀山寺」に改名。秀吉の守り本尊と伝えられる雨宝童子立像が安置されているほか、秀吉の画像、朱印状などが伝わる(大阪城にて保存)。また創建当時のものとされる木造阿弥陀如来立像は、右肩背面に貝殻が付着していることから、海中から引き上げられた仏像と考えられている(像高77.5cm、平安後期)。境内には、大坂東町奉行所の元与力で陽明学者であった大塩平八郎中斎門人松本乾知と父寛吾をはじめ、俳人・医者・儒者であった岡西惟中や、近松門左衛門「心中宵庚申」のモデル、お千代・半兵衛のほか、2006年に亡くなった昭和・平成期の人形浄瑠璃文楽の人形遣い・吉田玉男の墓がある。境内の桜が咲き乱れる春に参拝するのがおすすめ。



ふど2


源聖寺坂

坂の名は、坂の上り口北側に源聖寺があることに由来する西側の上り口は下寺町の松屋町筋に通じ、坂を上りきると生國魂神社正門の少し南、齢延寺と銀山寺の間を通る。道筋は上町台地上で水平となり、東は谷町筋・生玉南交差点の一つ南の辻へと至る。上り口から途中までは石畳となっているが、途中から階段状になり、少し東南東に向きを変える。かつて石段を上りきった場所に昭和末期まで「源九郎稲荷」があった。コンニャク好きの狸が祀られ、天王寺区史に「こんにやくの八兵衛」という祠があったことが記されている。現在どこへ還座されたかは不明である。

坂の石畳は、大阪市電の敷石を再利用しています。


ふど3


◆源聖寺

543-0076大阪市天王寺区下寺町1-2-2506-6779-3625

◆金台寺

543-0076大阪市天王寺区下寺町1-3-8806-6771-0295

◆萬福寺

543-0076大阪市天王寺区下寺町1-3-8206-6771-2183

萬福寺は西山浄土宗の寺院で、文禄年(1594)、前田利家の弟利信と僧・開導によって開創されました。★新撰組大坂旅宿跡/慶応元年(1865)には、将軍・徳川家茂の上洛に備えて、大坂警備のために会津藩が一心寺に、当寺には新選組の谷三十郎以下20人ばかりが屯営しました。

・・・「天王寺七坂」ではないけど「学園坂」さらに南下しますと、


ふど4


良運院

543-0076大阪市天王寺区下寺町2-2-3306-6779-7359

東儀一族墓所良運院には、千四百年にわたって四天王寺の雅楽演奏に携わってきた天王寺樂人東儀氏代々の墓所がある。同氏は、聖徳太子を経済的・軍事的に支えた秦河勝の子孫とされる。墓碑には「太秦宿禰(」の姓が冠され、秦氏の首長系の子孫であることを示している。『聖徳太子伝暦』には、推古20年(612)に百済より渡来した味摩之(みまし)が伎楽を伝えたと伝承される。太子の命により、この味摩之の弟子となったのが河勝の息子や縁者たちであった。ここに天王寺楽所の歴史が始まる。応仁の乱(1467~77)により京都の樂人が四散した際には、天王寺樂人は宮中に登用され舞楽の復興に寄与した。16世紀以降は、本拠地の天王寺に在住した本家筋の「在天樂人」と宮中の儀式等を担当した「在京樂人」とに分かれたが、ここに鎮まるのは「在天」の東儀氏の人々である。


ふど5


円成院

543-0076大阪市天王寺区下寺町2-2-3006-6771-0924

鎌倉時代後期に一遍が四天王寺を参詣した時に構えた庵の跡地という。延享元年(1744年)遊行第五十一代他阿賦存が寺を建てた。境内には歌舞伎役者、関取など近世の芸能関係者の墓が多数存在するが、墓石の戒名から分かるように、ほとんどは他宗派の人である。

植村文楽軒墓所初世植村文楽軒(17511810)は、人形浄瑠璃・文楽座の始祖。文楽の創業者。本名は正井与兵衛。淡路国津名郡仮屋浦(現:兵庫県淡路市仮屋)の出身。寛政頃に大坂の高津橋南詰西の浜側に浄瑠璃稽古場を開場。1805年に資財をなげうって新地に立人形興行を始める。これが文楽座の源流になる。のち1809年に堀江に転移。植村文楽翁を名乗る。墓所は大阪市天王寺区下寺町にある円成院。戒名は「釋樂徹」。

・・・いくつかのお寺を探訪するために、「口縄坂」を通り過ぎていました。