・・・前回、大阪名物「粟おこし」の梅鉢の紋のことを書きましたので、ちょっと寄り道します。
【参考】粟おこし・岩おこし
米を原料とする菓子。(名称に粟とついているが粟ではなく)米を細かく(粟のように)砕いて水あめ等で作ったシロップと、生姜、ゴマなどを混ぜて固めたもの。岩おこしと比べ、原料を若干粗く砕いてあり歯ざわりは軽めである。大阪を代表する菓子として古くから親しまれている。奈良時代に糒を蜜などで固め豊作祈願として神に捧げられたものが起源とされる。 室町時代には一部の貴族などの間で食べられていた。豊臣秀吉の大阪城築城により大阪は繁栄し「身を起こし、家を起こし、国を起こす」縁起の良い食べ物として人気を得ていった。大阪は江戸時代には「天下の台所」と呼ばれ経済の中心地であったため、良質な米や飴などの材料が比較的安価に入手できた。このことから粟おこしの製造が盛んに行われ、大阪を代表する菓子として全国に広まった。もともとは粟が原料であったが、やがて米などをおこし種に用いるようになった。大阪の粟おこし、岩おこしには梅鉢の御紋が入れられるのが通例だが、これは太宰府に流される菅原道真が、船待ちのため(現在の★大阪市上本町辺り)休憩していた時に、同情した老婆が菓子を献上すると、菅家の梅鉢の御紋が入った自分の着物の袖を老婆に与えて、「この紋を目印に広く世に広めよ」と感謝したことが始まりとされる。また旧陸軍の第四師団で、非常食として珍重されていたことでも有名である。
・・・「粟おこし」のお店はいろいろありますが私的なつながりで、
◆あみだ池大黒
大阪市西区北堀江3-11-26/06-6538-2987
http://www.daikoku.ne.jp/index.asp
1805(文化2)年創業の和菓子・洋菓子店。創業時から「粟おこし」の製造を始めました。初代小林林之介さんは、年貢米を積んだ千石船の船底に溜まる余剰米に目をつけて、おこしの原料にすることを思いついたそうです。日露戦争の時に明治天皇の恩寵の菓子として選ばれたそうで、兵隊たちの人気も高く、やがて宮内庁御用達となりました。当時としては高価な米と砂糖をふんだんに使ったので、おこしは大阪名物となりました。伝統的な商品のほかに、洋菓子風の「シューラスク」や「ピーナツおこし」などの新しい味も好評です。「おこし」は日本で最も古い歴史を持つお菓子といわれています。弥生時代の出土品には<糒=ほしいい=米を蒸して乾燥したもの>に似た穀物の加工品が出てきます。奈良時代には『日本書紀』の神武天皇の祝詞に、『糒』を蜜で固めたものが記されていることから、豊作祈願として神に捧げられていたことがわかります。
第二次大戦でも焼け残った蔵には、全国各地から集められた約3500体の大黒様がおさめられています。
◆あみだ池筋
北堀江にある和光寺(境内に大きな池があり、その上の浮御堂に阿弥陀如来をまつっているため、「あみだ池」の通称で呼ばれる)のすぐ横を通ることに由来する。
◆智善院「和光寺」
550-0014大阪市西区北堀江3-7-27/06-6531-1360
http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000008849.html
浄土宗の仏教寺院。尼僧が住職をつとめる。山号は蓮池山。正式な寺号は智善院和光寺。あみだ池和光寺。智善上人は信州善光寺の本尊が出現した霊地として寺院を建立、蓮池山智善院和光寺と称した。1698年(元禄11年)堀江新地開発のとき、江戸幕府の命令で境内地を1800坪とし、また永代寺地と定めた。智善上人は大和国郡山(奈良県大和郡山市)の柳沢家の出身で、信州善光寺大本願第113世の光蓮社心誉智善上人であり、1727年(享保12年)7月21日に没した。江戸時代には本堂・放光閣・観音堂・普門堂・愛染堂・薬師堂・抹香地蔵・閻魔堂・地蔵堂・金比羅権現・金銅地蔵・鐘堂があったが、1945年(昭和20年)3月13日、米軍による空襲で本堂・諸堂などが焼失。戦後の復興計画により境内地が削られたが、1947年(昭和22年)には仮本堂を建立。放光閣も再建された。1953年(昭和28年)には庫裡が完成、1961年(昭和36年)6月15日、本堂の落慶法要が営まれた。本堂は鉄筋コンクリート建て、一階は会合など集会に使用できるようになっている。
・・・ここで素敵なカエルちゃんに出会えるなんて、ご利益ですね。
★阿弥陀池(あみだ池)
http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000009161.html
境内に阿弥陀池がある。この付近の地名、あみだ池の語源となっている。 池の中央には放光閣という宝塔がある。上方落語の演目の舞台にもなっている(尼寺であることも、ネタの中で触れられている)。長野県の善光寺本尊である一光三尊の阿弥陀如来は欽明天皇13年、百済国より仏教伝来とともに伝わり、日本最古の仏像とされている。仏教伝来以降、崇仏・廃仏の論争が続く中、廃仏派の物部氏により難波の堀江に棄てられた。信濃国国司・本田善光が難波の堀江に棄てられた阿弥陀如来を池より救った。このことからこの池が阿弥陀池といわれるようになった。後に池から救い出された阿弥陀如来は長野県飯田市に祀ったが、624年(皇極天皇元年)に現在の善光寺のある長野市元善町に移した。
・・・古いお寺には、様々な史跡が凝縮しています。それでは、再度「天王寺七坂」にもどります。