・・・きりがないので「城南寺町」に別れを告げて、一気に「高津宮」へ。
◆浪速「高津宮(高津神社)」
542-0072大阪市中央区高津1-1-29/06-6762-1122
当宮は浪速の地を皇都(高津宮)と定められ大阪隆昌の基を築かれた仁徳天皇を王神と仰ぐ神社であります。仁徳天皇が高殿に昇られて人家の炊煙の乏しいのを見られて人民の窮乏を察し直ちに諸税を止めて庶民を救済されました御仁政はあまねく国民の敬慕する処であります。その御仁政を慕い平安期の初期清和天皇の貞観八年(866年)勅命(天皇の命令)によって旧都の遺跡を探索して社地を定め社殿を築いてお祭りしたのを創始といたします。以後世々皇室を始め時の幕府等の度々の御造営寄進を重ねて浪速津の守護神と仰がれ御神威輝き渡ったのでありますが、その後700年を経た正親町天皇の天正十一年(1583年)豊臣秀吉が大阪城の築城に際し比売古曽社の現在地に御遷座(神社の御神体が移ること)になって今日に及んでおります。仁徳天皇の徳政を敬い大正十年に制定された大阪市歌にも「高津宮の昔より代々栄えをかさねきて民のかまどに立つけむりのにぎわいにまさる大阪市・・・」と歌われています。昭和二十年三月の第二次大戦の戦火を浴び神輿庫を一つ残して社殿ことごとく焼失しました。しかし戦後氏子を始め崇敬の厚い奉賛により昭和三十六年十月社殿以下ことごとく復興完成を見ました。
・・・裏参道(坂)というのでしょうか、この入り組んだ階段がたまらなく好きなんです。
★相合坂と縁切り坂
高津宮は地形的にみて周囲より一段高い丘状の所に位置している。それゆえ参拝にあたっては表参道、北坂、西坂、相合坂と四ケ所いづれかの階段を登らなければならない。このうち西坂は俗に「縁切坂」と呼ばれていた。その昔、この坂は三曲り半に道が曲がっていて「摂陽奇観」巻六高津の条は「高津西ノ坂世俗去り状坂といふ三下り半に曲がりたる由也」とあり、これが縁切坂の名のゆえんである。しかし、明治中期に今のように改修し更にその後、明治後期になってその南側に現在のように南北両方から登る階段を造り、これを「相合坂」と名付けたそうである。現在この相合坂は、別名「縁結びの坂」と呼ばれ、男女それぞれ南側と北側から登り、ちょうど頂点のところで出会うと相性がよいといわれている。
◆五代目桂文枝之碑
上方落語四天王の一人として、戦後ほろびゆく危機にあった落語の復興に尽力し、多くの弟子を育て、平成十七年一月十日・高津宮での「高津の富」を最後に、同年三月十二日鬼籍に入る。この碑はその功績を称え後世に伝えるため、師が心血を注ぎ創作し演じた「熊野詣」に因み、世界遺産にも登録された熊野の石材を用い、長年の盟友であった三代目桂春団治師の筆により建立した。平成十八年三月吉日・社団法人・上方落語協会会長・桂三枝
◆木谷蓬吟・千種顕彰碑
木谷 蓬吟は本名 正之助。明治10年(1877年) 五代竹本弥太夫の二男として北堀江に生まれる。実業家で美術パトロンの芝川照吉は実兄。大阪市立商業学校を卒業後就職した日本貿易銀行をもじって「蓬吟」と号した。浄瑠璃研究の第一人者で 『大近松全集』全16巻や『郷土趣味 大阪人』を刊行。昭和9年(1934)に近松研究会を創立した。著書は『文楽今昔譚』『道頓堀の300年』など多数。昭和25年(1950)没
木谷千種は旧姓吉岡、本名は英子。明治28年(1895)に堂島に生まれ、府立清水谷高等女学校在学中から日本画に関心をよせ、深田直城、池田蕉園に師事後、北野恒富、野田九浦にも学んだ。大正9年(1920)に蓬吟と結婚。文部省美術展覧会、帝国美術院展覧会で活躍し、八千草会を設立して女性画家育成にも尽力した。昭和22年(1947)没。
大阪を愛し、郷土の文化芸術に貢献した2人の碑は、近松研究会が近松門左衛門の墓所で同研究会が開かれた谷町8丁目の法妙寺に建立したが、谷町筋拡張による移転で近くの本政寺で保管され、平成18年4月高津宮に移された。碑の文字は、菅楯彦の書。
◆郡戸王子推定地碑
熊野古道九十九王子の3番目とされていますが、確証はないようです。
◆高津の富亭
同社は古典落語「高津の富」「高倉狐」「祟徳院」の舞台として知られ、古くから大坂町人の文化の中心地として賑わっていた。現在も境内にある「高津の富亭」で、五代目桂文枝一門による落語の寄席が定期的に行われている。
◆「梅乃井」「梅乃橋」
表参道中程の小さな石の反り橋、が「梅乃橋」です。昔はその下を「梅川」が流れていました。この川は別名「梅津川」とも呼ばれ、川下は道頓堀川につながっていました。高津宮が位置する上町台地は、古来より名水が湧くところとして知られていて、その湧き水の一つがこの川の水源だったようです。梅乃橋には明和5年(1768)天満九丁目の長浜屋五兵衛により奉納されたことが橋柱に刻まれています。この橋の近辺に「梅乃井」があり、また表参道を出て坂を上がった谷町筋あたりが「梅ヶ辻」と呼ばれていました。ちなみに、大阪名物粟おこしについている梅鉢の紋は、天満宮の梅と思われていますが、実は高津宮の梅なのです。