・・・前回、神戸北野にある現役「赤丸ポスト」のことを書きましたので、その紹介も含めて「北野」を特集してみたいと思います。
◆トアロード
「トアロード」はかつて、神戸開港(1868年)とともに、職場のある居留地と住居のある北野を結ぶ、外国人の重要な通勤・生活道路でした。この「トアロード」という名称は、行政が決めたわけでも、法的に定まったものでもなく、他に日本名を持たない、通称なのです。そのためか表記や呼び方にも定まったものはなく、実際に「トアロード」に掲げられているアーチや道路標識などの表示には、ローマ字による「TOR ROAD」をはじめ、「トアーロード」、「トーアロード」、「トア・ロード」、また、漢字による「東亜」など多様な組み合わせが見られます。このように不思議な響きを持つ「トアロード」という名称の由来は定かではありません。その由来には諸説あり、そこには神戸ならではの、歴史を垣間見ることができます。1908年(明治41年)、「トアロード」の最北端、現在の「神戸外国倶楽部」の場所に、英・独・米・仏の人々の共同出資で「トアホテル」(1908~1950年)が開業されます。ある時代までこの道は、居留地へと至る「三宮筋通」と呼ばれていましたが、この「トアホテル」ができた頃から、「トア・ホテル・ロード」などの変遷を経ながら、少しずつ「トアロード」と呼ばれるようになったという説が有力です。
★北野町および山本通界隈
江戸幕府は、1858年、アメリカと結んだ日米修好通商条約など五か国と安政の五か国条約を締結し、箱館(函館市)、新潟(新潟市)、神奈川(横浜市)、兵庫(神戸市)、長崎(長崎市)の5か所の港を開くことになった。条約では、開港地には外国人居留地を設けることが義務付けられ、兵庫では近くの神戸村の海岸沿いの地区が居留地と定められた。しかし、この居留地の整備が思うように進まなかったことから、周辺地区にも外国人住宅の建設が進められた。外国人居留地の北方、六甲山麓に位置する北野町山本通はそうした地区の1つである。神戸の中心部である商工業地域とはやや離れており、また外国人居住区ということで神戸大空襲の対象とされなかったことが幸いし、垂水区のジェームス山などと並んで、戦前の神戸の優雅な雰囲気を残す稀少な街並みとなっている。明治20年代から大正期(19世紀末~20世紀初)にかけて建設された洋風住宅(いわゆる異人館)が多数残り、それらが和風住宅と混在して調和のとれた街並みを形成している。神戸市は文化財保護法及び神戸市都市景観条例に基づき、こうした伝統的建造物群が集中して残る、東西約750メートル、南北約400メートルの地区を伝統的建造物群保存地区に定めた。当該保存地区は、1980年に「神戸市北野町山本通伝統的建造物群保存地区」の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定された。種別「港町」としては全国初の選定である。保存地区内では、洋風建築物34棟、和風建築物7棟等が伝統的建造物として特定され、保存措置が講じられている。
◆神戸基督教改革宗長老会
650-0004神戸市中央区中山手通2-3-3/078-331-9057
http://kbchinesechurch.visithp.com/
1949年12月、米国人宣教師ウィルフレッド C.マクラクリン牧師が、日本にいる中国人にも神の愛を伝えるために神戸・元町に日本改革派教会元町伝道館を開いたのが出発です。1951年、神戸・中山手(現在至る)に土地を購入。鉄骨3階建の近代的な礼拝堂を建築し、日本で初めて中国人のためのキリスト教会が誕生しました。1979年、現在の新礼拝堂が落成。この壮麗な礼拝堂は、創立者・故マクラクリン牧師の名を拝し「明樂林記念礼拝堂」と名付けられました。礼拝堂正面のステンドグラスの他、窓には、至る所に聖書の物語や基督の生涯を描いた美しい絵がはめ込まれています。1995年、阪神・淡路大震災で幼稚園も教会も大きな被害を受けます。1999年、礼拝堂の修復が完成、同時に50周年を記念して鐘楼が設置されました。
◆華僑基督教会
650-0004神戸市中央区中山手通2-24-9/078-241-7091
◆北野「工房のまち」
650-0004神戸市中央区中山手通3-17-1/078-221-6868
http://kitanokoubou.jp/index.html
全国的な趨勢ですが、ここ神戸でも少子化が進んでいます。旧北野小学校も‘96年(平成8年)の閉校時には全校生徒数が119名となっていました。また、神戸は‘95年(平成7年)に阪神・淡路大震災に見舞われました。旧北野小学校も大きな被害を受け、二棟あった校舎の一棟が使用不能になってしまいました。旧北野小学校は、この児童数の減少と震災被害により、隣接する二小学校との統合が決定され閉校となりました。旧北野小学校は、1908年(明治41年)に開校され、閉校時で87年の歴史を誇る由緒ある小学校でした。その歴史の中で多数の卒業生を送り出してきました。それだけに閉校を惜しむ声が強く、思い出のいっぱい詰まった校舎を保存して欲しいという要望が持ち上がっていました。一方、北野地区と旧居留地を結んで南北に走るトアロードは、”神戸のハイカラ文化”発祥の地でした。神戸の代表的な観光スポットとなっている異人館街はかつて外国人が生活した街、海岸通り一帯の旧居留地はオフィス街、そしてトアロードが通勤路でした。進取の気風に富んだ神戸っ子は、トアロードを行き来する当時の外国人のライフスタイルを積極的に自分たちの生活に取り入れ、洋服・靴・コーヒー・洋菓子・洋家具・ジャズ・映画・野球・ゴルフ等々の多くのハイカラ文化を日本中に発信してきたのです。往時、トアロードは神戸のメーンストリートでした。往時の繁栄をもう一度と、トアロードの復権を願う商店会の皆さんからは、その拠点にという声が上がっていました。また、これらの声とは別に、大量生産、大量消費の時代の中で、これに飽き足らない生活者の間からは、「作り手の顔が見えるモノ」「手の温もりが感じられるモノ」への希求が高まりをみせています。
財団法人神戸ファッション協会の異業種交流会の中で、このトレンドに強い関心を寄せていた人達が集まって、「工房のまちをつくる会」が発足され、「工房のまちづくり」を提唱していました。さらに、神戸市が、かねて閉校後の旧北野小学校の活用法を検討していたこともあり、‘97年(平成9年)4月、神戸市、地元住民団体、地元業界団体、(財)神戸ファッション協会、神戸商工会議所が集まり、神戸大学・吉田教授(当時)を座長に「北野小学校暫定活用検討懇話会」が設けられました。その中で議論が重ねられ、(1)校舎は、地元住民、観光客、一般市民をターゲットとした「神戸ブランドに出会う体験型工房」とする(2)校庭は、神戸の代表的観光スポット・異人館街を控えながら、北野地区に観光バスの駐車場が無かったということもあり、観光バスの駐車場として活用するという構想がまとめあげられました。
この構想を基に、神戸市、(財)神戸ファッション協会、(財)神戸市都市整備公社によって、具体計画がまとめられ、‘97年(平成9年)11月には改修工事が着手され、同時にテナント募集も開始されました。この後、‘98年(平成10年)3月、入居テナントの決定、同6月末には各テナントの内装工事を完了し、7月11日にグランドオープンを迎え、誕生に至っております。
◆神戸ムスリムモスク
650-0004 兵庫県神戸市中央区中山手通2-25-14/078-231-6060
洋館が立ち並び、異国情緒が漂う神戸市中央区の北野・山本地区。トアロードの緩やかな上り坂をゆっくり歩いていくと、山手幹線を過ぎたあたりで右手に「ミナレット」と呼ばれる四つの塔とタマネギの形に似た丸いドームが見えてくる。日本に現存するモスクでは最も古く一九三五年に完成した。インド人を中心に、トルコ人やタタール人らのイスラム教徒(ムスリム)が資金を出し合って建てたという。彼らの多くは貿易商。まさにミナト神戸が生み出したモスクだった。完成から十年後の四五年三月十七日未明。神戸の市街地が焼け野原となった神戸大空襲で奇跡的に焼け残った。その半世紀後の九五年一月十七日に起きた阪神・淡路大震災でも大きな被害は受けず、住民の避難所としても使われた。「すごくしっかり造られてるから大丈夫」と、胸を張る理事の新井アハサンさん(53)は、パキスタン出身。妻が日本人だ。モスクの中に入る。一階には赤じゅうたんが敷き詰められている。メッカの方向の壁に「アラーのほかに神なし」とアラビア文字が見える。頭上高く、きらびやかなシャンデリア。窓はオレンジ色のステンドグラスで、柔らかな光が差し込む。荘厳な雰囲気とともに、ムスリムたちがモスクに抱く愛着の念も感じる。一階は男性、中二階は女性のための礼拝所になっている。礼拝は、早朝▽正午過ぎ▽遅い午後▽日没後▽就寝前の一日五回が基本。毎週金曜は集団礼拝日で、神戸だけでなく姫路や大阪など関西各地から信者百―二百人が訪れる。祝祭日には、三百人を超えるという。日本最古のモスクだけに「文化財として登録を」との話もあったという。だが新井さんは「ここはムスリムの建物だから、われわれが守る」ときっぱり。ミナト神戸の歴史の生き証人として、モスクはそびえ立ち続けることだろう。(2007年7月神戸新聞)