・・・天王寺公園に行くたびに、必ず眼にする「長屋門」です。
【旧黒田藩(福岡藩)蔵屋敷長屋門】
543-0063大阪市天王寺区茶臼山町1天王寺公園内
http://www.osaka-info.jp/jp/search/detail/sightseeing_2148.html
江戸時代中期の蔵屋敷の遺構をもつ数少ないもののひとつで、現在の★中之島三井ビル付近にありました。昭和8年(1933)、同ビル建設に際し三井社から大阪市に寄贈され、天王寺公園内の大阪市立美術館南側に保存されています(大阪府有形文化財)。
◆中之島三井ビルディング
533-0005大阪市北区中之島3-3-3
旧中之島三井ビルディング(高橋貞太郎が設計、1933年竣工)の特徴であった縦線基調の外観を継承しつつ、ステンレス・石・ガラスで外装を構成されている。★設計:シーザー・ペリ・アンド・アソシエーツ・インク(デザイン・アーキテクト、日建設計。竣工:2002年(平成14年)8月。なお、中之島ダイビル側の西側壁面はシンプルな外観になっている。上層階には東レ大阪本社が入居しており、東側の壁面上部に「'TORAY'」のロゴがある。また、2002年からクリスマス・シーズンにはOSAKA光のルネサンスのイルミネーションとして、15階から30階までの東側ガラス面を利用して、ブラインドの開閉によりクリスマスツリーやサンタクロースなどの図柄を描く「ウインドー・アート」(OSAKA Buillumination)が行われていたが、12回目の2013年をもって終了した。大阪まちなみ賞奨励賞(2003年)、2003年グッドデザイン賞、照明普及会賞(2003年)を受賞。
◆越中橋
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000025753.html
下中之島の橋では越中橋が最も古く、橋の北詰に【肥後・細川越中守蔵屋敷】があったことからこの名前が付けられたと想像される。また南詰めには【播磨藩蔵屋敷】があった。橋は明暦期(1655~1658)の地図にもすでに画かれ、江戸時代初期には架けられていたこともわかる。江戸時代の橋の規模は『地方役手鑑』や『米商旧記』に詳しい。土佐堀川の越中橋は橋長三四間二寸(67.0m)幅員二間九寸(4.2m)であった。明治18年の大洪水では大きな被害を受けた。土佐堀川の橋は難波橋から湊橋までことごとく破壊され、木津川方面へ流れた。第1次及び第2次の都市計画事業においては新設、永久橋化が行われた。越中橋も昭和4年に近代化された。橋梁形式は三径間ゲルバー式鋼鈑桁橋で、20.5m、29.0m、20.5mのスパン割を持ち、幅員は7.5mである。戦後から進行していた西大阪一帯の地盤沈下は戦後になってさらに拍車がかかり、台風時の高潮によって大きな被害を受けることになった。このため、高潮対策事業が実施されたが、この中で橋梁の嵩上げ工事も行われることとなった。越中橋も嵩上げの必要が生じたが、嵩上げ高が3.5mにもなるため、橋を歩行者専用とし、階段で取り付けるように変更された。工事は39年に完成し、幅員も3.8mに縮められた。
【参考1】肥後橋
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000030566.html
江戸時代を通じて架橋地点は現在と異なり、西横堀川東岸の横堀筋北端から中之島へ架かっていた。橋の北詰に【肥後
熊本藩蔵屋敷】があったことから肥後島と呼ばれて町名にもなっており、橋名もこれに由来する。なお、熊本藩の蔵屋敷は元禄期に中之島西部の★「越中橋」北詰へ移転したが、橋名はそのまま残った。1885年(明治18年)の淀川大洪水で流失し、1888年(明治21年)に渡辺橋と対になる現在の位置に架け替えられ、鉄橋となった。1926年(大正15年)の第一次都市計画事業によって、中央部スパン27.0mの鋼アーチ、両側に橋台兼用のコンクリートアーチの橋が完成。意匠の様式はスパニッシュルネサンス式と呼ばれる。1966年(昭和41年)には、大阪市営地下鉄四つ橋線の建設に伴い現在の橋に架け替えられた。2004年(平成6年)に橋面と高欄部の改装も行われた。
【参考2】細川家
足利氏の一族としてはじまり700年間続いてきた歴史ある名家です。細川家の当主は、戦国時代には武将として活躍し、江戸時代には肥後熊本藩主 として文武両道に励んできましたが、とりわけ学問に励み、文化の発展と芸術家の育成に力を注いだことで知られています。また、初代越中守を名乗った忠興(三斎)以来、当主の多くが越中守を名乗っており、富山県ともゆかりの深い関係にあります。とくに忠興の夫人ガラシャは、関ヶ原の戦いで敵方の石田三成の人質になることを拒み、家老に介錯を命じその刃で果てたと伝わりますが、このとき大阪にあった忠興邸のあたりは今も越中町と呼ばれ、その屋敷の井戸跡として★「越中井」が残っています。
【参考3】越中井
大阪市中央区森の宮中央二丁目12越中公園そば
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009669.html
この付近は細川越中守忠興(ただおき)の邸跡で、越中井はその邸内にあったものといわれている。慶長5年(1600)関ケ原戦の直前、忠興が家康に従い上杉攻めに出陣中、石田三成は在坂諸大名の妻子を人質にしようとしたが、忠興夫人玉子(洗礼名ガラシャ)はこれに従わず、家臣に胸を突かせて37歳の生涯を閉じた。近くのカトリック教会には、ガラシャ夫人像とキリシタン大名の高山右近(たかやまうこん)像がある。
◆味の素グループ大阪ビル
〒530-0005大阪市北区中之島6-2-57/06-6449-5612
味の素グループ大阪ビルが建てられる前に発掘調査が行なわれました。この地は、各藩の蔵屋敷が入れ替わりが激しい土地でしたが、天保期から文久3年にかけては、【龍野藩】が、この地に所在していたことは資料で明らかになっています。味の素ビルの1階には、発掘調査跡や主と土品の展示が行なわれていて、いつでも観ることが可能です。龍野藩は、播磨地方に所領があり、最初は姫路藩の池田氏が支配していました。元和3年(1617)、池田氏が鳥取に転封するにあたり、本多政朝が入封し、新たに龍野藩ができ、5万石の藩主となりました。その後かなりの大名家の交代があり、万治元年(1658)、一時、幕府の直轄領となります。寛文12年(1672)、脇坂安政が信濃飯田から入封し、再び龍野藩となりました。元禄14年(1701)、3月14日、江戸城において有名な「殿中松の廊下事件」がおこります。勅使刃傷に及び 浅野内匠頭長矩は即日切腹、播州浅野家は断絶、吉良家はお構いなしというご馳走役を務めていた播州赤穂藩主 浅野内匠頭長矩が、指南役の吉良上野介義央に、厳しい処分が下され、播州赤穂城は明け渡しということになります。同年、安照と足守藩主 木下肥後守公定が赤穂城を請け取りました。4月19日、目付・代官立会いのもと、「受城使」として龍野藩第2代目の藩主 脇坂淡路守浅野家旧領は龍野藩脇坂家が翌年11月3日まで在番し、石原新左衛門正氏・岡田庄太夫俊陳両代官の支配となりました。天保3年(18は、寺社奉行を務めており、見事にこの騒動を裁き「名奉行」と評判され、天保8年(1838)には、老中になり天保の改革に参画しました。第9代藩主脇坂安宅(やすおり)も、奏者番、寺社奉行、京都所司代、老中を歴任し第10代藩主脇坂安斐(やすあや)のときに、明治維新を迎えました。
【参考】味の素株式会社大阪支社「食のライブラリー」/06-6449-5842
http://www.syokubunka.or.jp/library/alliance.html
西日本エリア在住の顧客の方々に向けた情報発信機能の基幹施設として「味の素グループ大阪ビル」2階に2003年12月に開館しました。食に関する図書、雑誌、映像資料を提供する図書館です。食文化・食材・食品・料理・食生活・栄養・食料経済等に関する図書を現在約1万2千冊所蔵しております。どなたでも無料でご利用いただけます。