蔵屋敷(6) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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大村益次郎寓地跡/大阪市西区江戸堀2-6-33

1943年(昭和18年)大村卿遺徳顕彰会によって建てられました。弘化3年(1846)緒方洪庵の適塾に学び、ずっと適塾に住んでいたそうですが、塾頭になり倉敷屋作衛門の屋敷に下宿しました、その屋敷跡です。彼は幕末の軍政家で日本の近代的軍制に尽力し、明治2年兵部大輔に任ぜられたとき、鎮台建設地・兵学校敷地などを検分し天保山で海軍根拠地の位置を選定したことは有名で


さい1


・・・史跡よりも、ビル1階にある巨大なブリンターに興味深々です。


さい2


小城藩蔵屋敷跡

高等裁判所の道を隔てた向かいに「肥前佐賀県小城藩蔵屋敷跡」の碑が建てられている。石碑の側面に、「小城藩は鍋島藩の支藩で幕末の騒乱の時は本藩と従い、維新の鴻業に参加した」とある。


・・・そろそろ日も暮れてきましたので、ちょっと急がねばなりません。


さい3


佐賀藩蔵屋敷跡】(大阪高等裁判所

530-8521大阪市北区西天満2-1-1006-6363-1281

http://iwata-lawoffice.com/wp/?p=2532

平成2年(1990)、大阪高等裁判所構内で地下駐車場の工事のとき佐賀・鍋島藩蔵屋敷跡が発掘調査され、長大な船溜(船入)・屋形・米蔵などの並ぶ様子が確認されました。堂島川の北側、東西にちょうど水晶橋から鉾流橋にかけて大阪高等裁判所の広い敷地があります。この広大な敷地が肥前佐賀藩蔵屋敷跡です。平成23(2011)、にここから江戸時代最高峰とされる同藩特製の磁器「鍋島」約350点が出土しました。珍しいものでは、入れ歯なども見つかりました。武家の社会ではその入れ歯は飾り用、見栄のために付けていたといわれています。


さい4


【参考】「歴史発掘おおさか2012」展大阪府立近つ飛鳥博物館

大阪高等裁判所などの敷地(大阪市北区)には江戸時代、佐賀藩蔵屋敷があった。3年前の発掘で、同藩で生産された最高級磁器「鍋島焼」の破片が大量に出土。鍋島焼は、佐賀藩鍋島家が将軍への献上品として17世紀半ばに開発し、藩直営の窯でつくられた。色絵や染付、青磁などがあり、尺皿(直径約30センチ)2枚のほか七寸皿(約21センチ)・五寸皿(約15センチ)各20枚組など計5品82枚のセットを毎年、将軍に献上。幕府要職や他大名、公家「飾り物ではなく、実用に供された食器でした。釉薬(ゆうやく)を長崎で買い付けるなど、最高の材料と技術が惜しげもなく注がれました」と、発掘を担当した大阪文化財研究所の市川創さんは話す。佐賀県立九州陶磁文化館の大橋康二特別学芸顧問は「採算を度外視し、徹底した管理と技術の粋で高い品質を均一に保ったのが鍋島焼です。組み皿をみると、絵付けの個体差が分からないくらい精巧に作られています」と説明してくれた。にも贈られたが、当時は民間には一切流通しなかった特殊な役割を持った磁器だ。佐賀藩蔵屋敷跡があったのは「天下の台所」と呼ばれた大阪の中枢、中之島かいわい。諸藩の産品を保管、販売する蔵屋敷が川沿いに立ち並び、国元からの物資を満載した船が川面を往来していた。35万7000石の大藩だった佐賀藩の蔵屋敷は約1万4000平方メートルの広さがあり、大阪で屈指の規模を誇った。詳細な絵図をはじめ文献資料が数多く残っており、船を引き入れて荷を積み下ろしした船着き場「船入」を中心に、米蔵や勤番武士の暮らした長屋、大目付や留守居ら要職の部屋などを配置した屋敷内の様子が伝わっている。1990年度の発掘では御船入の石垣遺構が見つかり、裁判所の敷地内に復元保存してある。鍋島焼の破片が出土した例は、東京の大名屋敷跡などではあるが、大阪では初めて。見つかった破片約350点の多くは、品質が頂点に達したとされる17世紀末から18世紀前期のものだった。また将軍への献上品と大名らへの贈呈品では描かれた絵柄が一部異なっていたが、蔵屋敷からは両方が出土した。市川さんは「参勤交代の途中で藩主が宿泊する時に使うため、蔵屋敷の備品となっていたものでしょう」と推察。大橋さんも「窯元から搬出する際、道中での破損に備えて必ず一定数の予備を一緒に運びました。無事運び終えて余剰となった品を、自家用として蔵屋敷で使った様子がうかがえます。蔵屋敷は1724年、大阪の街の3分の2を焼いた大火で全焼。鍋島焼の破片は、その後始末をした際に廃材を捨てた穴から出土しており、火災で破損して廃棄されたとみられる。出土品の中には釉薬が炎であぶられて変色したり、発泡したりしているものがあったという。大変面白い調査成果です」と注目する。発掘では茶わんやとっくり、化粧つぼといった日用品や、食材にしたマダイやツル、スッポン、シカの骨など、蔵屋敷での生活を物語る遺物も多数発見。18世紀後期の滑石製の入れ歯も見つかった。欧州で製造されたとみられる陶製やガラス製の食器なども出土し、グレードの高い暮らしぶりをうかがわせる。佐賀でつくられた瓦や、素焼きの皿も出土した。「こうした品は大阪でも入手できたはず。わざわざ国元から運んだのは、来訪者に佐賀の産品をPRすると共に、佐賀藩士としてのアイデンティティーを確認するためでは。彼らの矜持がうかがえます」。市川さんはこう話した。2013.2.12日本経済新聞

◆「舟入橋」

江戸時代、各藩は米や特産物を換金するため主に中之島を中心とした場所に蔵屋敷をもっていた。川沿いの蔵屋敷に直接船で多量の物産を搬入するため屋敷内には御船入という入堀を設けていた。そのため、川沿いの道路は入堀への水路をまたぐために橋が必要であり、この橋を船入橋と総称した。橋長は4間から8間半(約7.2メートルから15.3メートル)幅員2間(約3.6メートル)程度で積荷を高く盛った船が通航しやすいように反りの大きな橋であった。蔵屋敷は明治維新後全て姿を消したが、一部の船入橋は所有各藩の名をとめ、高松橋、徳島橋、熊本橋などとして残っていた。平成2年、この地に入堀跡が確認されて、現裁判所の地が鍋島藩蔵屋敷跡であることが裏付けられた。またこの船入橋は近松門左衛門の「心中天の網島」の中で、冥土へ旅立つ男女の姿を見送る「名残の橋」としても読み込まれている。平成八年大阪市


さい5


水晶橋

http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000022315.html

正確に言えば橋ではなかった。この橋は本来は昭和年に完成した堂島川可動堰という、河川浄化を目的として建設されたゲートである。橋面の改装が行われたとき、さらに多くの人に利用してもらうことを願って、法律上も橋と認定する手続きがとられたので、現在は名実ともに橋になっている。水晶橋という名の由来は今一つはっきりしないが、橋上にある照明灯が水面に映る様子が水晶のかがやきに似ているということから出た愛称であるとする説もあり、水都大阪が繁昌するようにという意味で水昌橋であるという説もあって決め難い。水晶橋は、その姿形のゆえに大阪の人々に愛されている。プロ、アマを問わず、画題として選ぶ人が多いのはその証拠である。水晶橋の美しさの要因を考えてみると、第一には本体のアーチとその上の九つの小アーチの組合わせの妙が挙げられる。重厚さの中にどこか軽やかさを感じさせる。昭和57年の改装工事でベンチ代わりの植枡も置かれている。また、ライトアップがなされ、中之島の夜景に彩りを添えている。


・・・ずいぶんと歩きましたが、この美しいイルミネーションに癒されました。お疲れさん。