蔵屋敷(5) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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◆「大江橋駅」【中之島蔵屋敷跡分布図

http://www.nrr.co.jp/station/oebashi.html

改札外のコンコースには、かつて中之島に立ち並んだ蔵屋敷跡が描かれた「中之島蔵屋敷跡分布図」が設置されています。これは、大阪中之島ロータリークラブから国際ロータリー100周年記念事業として中之島高速鉄道に寄贈されたもので


がい1


大江橋淀屋橋

http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000008880.html

大正10年(1921)、大阪を近代都市に改造するため、第1次都市計画事業が決定された。この事業は、御堂筋をはじめとする39街路と157の橋梁を整備し、大阪の骨格をつくりあげようとするものであり、昭和16年(1941)までの歳月をかけたものであった。このうちの根幹をなす御堂筋の建設に伴い、土佐堀川と堂島川に架けられたのが淀屋橋と大江橋である。両橋は「水の都」「八百八橋」の大阪の橋のなかで、市民が最も魅力を感じる橋として親しまれている。両橋梁は中之島に立地する市庁舎を挟む位置にあるため、景観的にもまた機能的にも最重要の位置付けであった。デザインは特に重視され、大正13年 (1924)、橋としてはそれまでほとんど例のないデザインコンペが行われ、全国から意匠設計を募集した。コンペでは幅員、橋長などのほかに、主構造を鉄骨鉄筋コンクリートのアーチ橋とし、2橋とも同一のデザインとし、周辺の建築物や背景と調和し、2橋の間の道路部分のデザインも考えること、などの条件が示された。1等に当選した大谷龍雄案は、選評によれば「南欧中世紀の気分ある近代式を用い、その根底においては東洋趣味の横溢せる…(中略)…全体の形極めて端正剛健、その形状の比例最も洗練を経たり。その主要材料たるコンクリートを様式の上に表現せんとする作者苦心の跡、最も注意すべし」とある。この計画案に手が加えられ、実施計画が作成された。北側の堂島川にかかる大江橋の規模は、橋長81.5m、有効幅員37.0m、南側の土佐堀川にかかる淀屋橋は、橋長54.5m、有効幅員37.0mである。構造形式は、両橋ともに上路充腹式、鉄骨鉄筋コンクリート造で、大江橋が4径間アーチ橋、淀屋橋が3径間アーチ橋、共に手摺り付である。主桁構造は鋲結 I型鋼、床部構造は鉄筋コンクリートで、基礎は木杭基礎である。高欄の構造は花崗岩貼りで、格子は青銅鋳物であった。両橋とも昭和5年(1930)5月に着工し、同10年5月に完成した。竣工後の改修としては、高欄の格子が戦時中の金属供出により取り払われ、木製のものになっていたが、これは昭和62年(1987)に青銅製にもどされた。また船舶航行の際の床面保護の目的で、平成11年(1999)に大江橋、また翌年淀屋橋について、床版補強工事としてアーチ部下面に鋼板接着を行った。以上のように、大江橋、淀屋橋とも、当初の外観が変わるような改修は行われていない。また補修や防水塗装等の措置は良好にされ、既設面の洗浄もされており、外観は竣工時の様子を伝えている。なお、橋の名板は関一市長の筆になるものである。第1次都市計画における橋梁の整備では、橋の不燃化、耐震化が計られるだけでなく、橋を都市の美観要素としてとらえ、「水都大阪」の都市景観を強く意識した。また、両橋の間にある市庁舎との調和をはかるなど、周辺の景観デザインをも考慮に入れた先駆的なものとして注目される。平成20年国の重要文化財指定により、大阪市の指定については解除。


がい2


土佐堀橋

http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000026019.html

あみだ池筋の土佐堀川に架かる橋。大正10年に新設された橋梁で、市電桜川中之島線の開通に先立って完成している。橋の北側には住友病院が、南側には三井倉庫(薩摩藩蔵屋敷跡)ある。


がい3


大阪上等裁判所跡大阪市西区土佐堀2-4

薩摩藩の蔵屋敷はこの土佐堀の上屋敷のほかに、江戸堀に中屋敷、立売堀に下屋敷があり、大藩にふさわしい大規模なものであった。明治元年鳥羽伏見の戦いの際、幕府の引渡し要求を拒んだため、会津藩兵の攻撃を擢れて惜しくも自焼した。「明治5年8月司法省官制」による大阪上等裁判所が、明治9年西道頓堀の旧金沢邸からこの蔵屋敷跡地に移設され、近畿一円は勿論中国・山陰・四国に至る広い司法を管轄した。

薩摩藩蔵屋敷跡大阪市西区土佐堀2-4

http://www.info.police.pref.osaka.jp/ps/nishi/annnai07.html

三井倉庫の前にある「薩摩藩蔵屋敷跡」の碑。1868年(明治元年)正月、鳥羽伏見の戦いに際して、この蔵屋敷(上屋敷)と、江戸堀の中屋敷、立売堀の下屋敷の3屋敷の引渡しを幕府から要求され、これを拒絶したため陸奥会津藩兵が攻撃してくることを聞き、自ら火をはなった西区の東北部一帯は、北区の中之島とともに、江戸時代には河川を利用した交通の便が良かったため、諸藩の蔵屋敷が集中した所である。薩摩藩(島津氏・77万石)の蔵屋敷は、土佐堀2丁目(上屋敷)にあったが、このほか掛屋敷が江戸堀(中屋敷)と立売堀(下屋敷)にあった。蔵屋敷の跡は大阪市顕彰史跡に指定され、昭和48年3月、「薩摩藩蔵屋敷跡」の石碑が建てられた。


がい4


常安橋

http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000022288.html

常安の名は江戸時代初期の豪商淀屋常安に由来すると考えられる。「大阪市史」には「淀屋は本姓岡本氏、元祖与三郎常安北浜十三人町に住し、材木売買を営み、元和偃武の後中之島を開拓して之に居る。故に常安町・常安橋の名あり。」と書かれ、常安橋が淀屋常安の中之島開発に伴って創架されたと受け取れる。しかし江戸時代前期の地図では同位置の橋の名を「田辺屋橋」としており、古くはそう呼ばれていたらしい。淀屋は5代目辰五郎の代で取り潰しになるが、常安請所は常安町となり、常安の名は長らく残ることになる。江戸時代の中之島一帯には蔵屋敷が建ち並んでいた。常安町も同じで蔵屋敷出入の物資運搬のために橋が必要であった。そのため橋の維持管理はこれらの蔵屋敷を事実上運営していた名代、蔵元などの有力商人の手でおこなわれていたものと思われる。常安橋が近代的な橋に変わったのは第一次都市計画事業によってで、幅員11.4mの3径間ゲルバー式の鋼桁が架けられた。戦後になって下流側にほぼ同じ幅の橋が新たに架けられている。


がい5


長州萩藩蔵屋敷跡大阪市西区土佐堀1丁目

http://www.osaka-info.jp/jp/ofc/201012/

水都大阪の新名所・八軒家浜。江戸時代には、京都伏見と大阪を結ぶ三十石船の発着場として賑わい、坂本龍馬もここから伏見に帰っています。龍馬は来阪した際、土佐堀にあった薩摩藩邸に出入りしていました。土佐堀の地名は、豊臣秀吉の時代に土佐商人がこの地に群居したことによりますが、薩摩藩邸から東へ行くと長州萩藩邸がありました。龍馬は薩長同盟実現に奔走しましたが、大阪では龍馬の故郷土佐の名を冠した地で一足早く「同盟」していたのです。現在、薩摩藩蔵屋敷跡の碑が土佐堀2丁目の三井倉庫のそばに、長州萩藩蔵屋敷跡の碑が土佐堀通りとなにわ筋の交差点にあります。

宮武外骨ゆかりの地大阪市西区江戸堀2-7

明治、大正、昭和を走り抜けた異色のジャーナリストで、権力と闘う反骨の人だった。筆禍による入獄四回、罰金刑十五回、発行停止・発売禁止処分十四回。風俗研究家、雑誌・新聞研究家という顔も持っていた。


・・・もっともっとクローズアップされてもよい人だと思います。